元和8年(1622)最上家が改易になった後、
鶴岡藩主酒井忠勝の弟の酒井忠次が1万2千石で入り、左沢藩が成立した。
左沢楯山城を廃城にして、築城した。
だが寛永8年(1631)跡継ぎのないままに没したために断絶、取り潰しになった。
慶安元年(1648)に取り壊された。(現地案内板・大系より)
現在は、住宅地となってしまい、堀なども埋立てられ、遺構はない。
近くにある巨海院に左沢楯山城の大手門が山門として残っている。
14世紀後半、大江氏7代時茂の3男元時により築城されたと伝わる。
天正12年(1584)に大江氏が最上氏によって滅ぼされると、最上氏の領地となり、
元和8年(1622)最上家が改易となり、酒井直次が入封した。
その後、小漆川城を築城し、移った。(現地案内板・大系より)
国指定史跡となっているが、やや藪化していた。
広大な範囲に曲輪が無数に丘陵の尾根沿いに残るが、技巧的な遺構はない。
蛇沢という谷を挟んで東西(南北?)に分かれている。最上川を望む、少年自然の家のある尾根がメインであるが、
国道458号線の反対側まで城域は及んでいる。
主郭は東側の最高点である、八幡座(最左画像)にあったようだ。
八幡座を下って東に行くと、そこそこ広い平坦地がある(左2画像)。
そこから南へ尾根を下るが、尾根上にひたすら曲輪が続く(中央画像)。
その東側に寺屋敷という広大な曲輪があったらしいが確認していない。
一方、西(南)の尾根は、案内板のある場所から、下ると、
尾根上にひたすら曲輪が続く。
堀切と案内板があるが、ただ尾根が途切れているだけのようにも見えた(右2画像)。
その先には千畳敷という広い曲輪があり、
その先は斜度が大きくなる。
初代大江親廣が、本楯から移動し、ここに築城した。
室町時代初期、8代時氏の時に二の丸、三の丸を拡張し、整備した。
天正12年(1584)18代高基の時、最上義光に敗れ、
貫見の御楯山で自刃、滅亡した。
元和8年(1622)最上家が改易となり、接収され、土塁や堀は破壊された。
その後は、二の丸付近に陣屋がおかれた。(現地案内板・大系より)
現在は小学校が本丸の跡で、町の中心部分となり、ビルや住宅地となってしまい、
遺構や雰囲気も残らない。
大系の写真と比較すると、石碑の前に現在は水掘が新設されたようだ。
文治5年(1189)大江広元が頼朝から寒河江荘を与えられ、
義父の多田仁綱を目代として遣し治めさせた。
東西百十間南北百間濠巾十一間、単濠単郭式の館城であった。
(現地石碑より)
石碑と一部残る土塁を除いては住宅地や畑となっているが、
単郭らしい雰囲気は残っている。
宝徳元年(1449)に武田信安により築城された。
その後、最上氏の領地となると、
高楯遠江守正福が1万2千石(2千5百石とも)で城主となった。
正福は元和元年(1615)大坂夏の陣で討ち死にした。(現地案内板・大系より)
現在は、山野辺城のすぐ北側、天満神社となっており、遺構らしい遺構は見当たらなかった。
裏に「世界の良心」安達峰一郎の生家がある。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。