承元2年(1208)前森今嶺(守)が築城したといわれる。
前森氏4代の後、本城氏が5代続き、応永13年(1406)最上伊予守満国が入り、
楯岡氏を名乗った。7代後の満茂が湯沢城に移るまで在城した。
その後、慶長13年(1608)最上義光の弟甲斐守光直が入った。
が、元和9年(1623)最上氏改易後廃城となった。
(大系と南出羽の城より)
西楯山と中楯山の2つに分れて残る。東楯山は近年削平されたようで、
遺構の臭いはしない。
縄張り図を見ると多くの曲輪があるようだが、
草木が繁茂していて中楯山は特に歩きにくかった。
中楯山は本丸の両端を大きな空堀で切ってある(左2画像)。
中楯山と西楯山の間には堀切が2条残る(左端画像)。
西楯山へ虎口が開き、本丸へと続く。
本丸は第2次大戦で防空監視哨が置かれたせいで削平されたようである。
そこから麓の隣正寺まで無数の草の繁茂した曲輪が続く。
麓に近い辺りに右端画像のような石塁が残っている。
最上満家の館跡と推測されている。
が、複郭という報告もあり今後の調査が待たれる。
(『南出羽の城』より)
最上川の東側、長瀞の中心部から西側に位置し、
現在は果樹園及び共同墓地になっており、周辺に比べ微高地になっている。
東側には堀の跡が残る。
建長年間(1249〜56)に西根氏により築城されたという。
天童氏に属した長瀞左衛門が城主となり、天童氏滅亡後、
最上義光の家臣遠山外記が入った。
義光の弟、長瀞義保が整備したとも推測される。
詳細な歴史が残ってない。
廃城後、寛政10年(1798)米津氏の陣屋となった。
(大系と南出羽の城より)
現在も一の堀、二の堀、三の堀が方形状に残る。
土塁も削られたようであるが、民家には若干残っているようである。
延文元年=正平11年(1356)に小田島長義が築城した。
その後、応永2年(1395)天童頼直の4男坂本頼高が館主となり7代続いた。
坂本氏の後、天正9年(1581)に里見景佐が館主となったとされるが定かでない。
現在は欅の巨木で有名になっており、小学校となっている。
水堀の跡が残る。
東根城から北東の位置、薬師寺の裏手にある、 丘陵上にある。歴史的な背景は不明である。 『南出羽の城』では詰の城ではなく物見砦と推測している。 曲輪もはっきりとは残っておらず、山頂部も狭く、 防御に適さないように思われる。
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