出羽(山形)4



山野辺城畑谷城高楯城 鶴ヶ岡城

山野辺城

山辺町【最寄り駅】JR左沢線羽前山辺駅

山野辺刑部が居館を築き、刑部は永正11年(1514)長谷堂合戦で討ち死にし、その後 日野備中守が1千石で入った。 慶長6年(1601)1万9千3百石で最上義光の4男山野辺右衛門大夫義忠が築城した。 現地案内板に依れば、前九年の役の頃に須賀川山辺氏が築城したという。 元和8年(1622)最上家の御家騒動の末に最上家は改易となり、 義忠は備前の池田家に御預けとなり、城は破壊された。 その後、文政6年(1823)白河藩阿部氏の飛び地として二の丸に陣屋が設けられた。 (現地案内板・大系より)
現在は、旧町役場と小学校を中心として住宅地となり、遺構は残っていない。 小学校の北と西に切岸の跡が残る(最右画像)。 北に数百m行った所に同時代に使用された山辺高楯城がある。

石碑 堀跡 切岸

畑谷城

山辺町

慶長5年(1600)9月11日直江兼続を大将とする上杉軍は米沢を立ち、 12日に攻城に入った。守将は江口五兵衛光清。 翌13日に水門が破られ、水掘の水も引き、 4時間の攻防戦で落城し、光清以下500人余打ち取られた。 (大系・南出羽の城・山辺町観光協会資料より)
館山を主郭として、 西に3重空堀(右1,2画像)、東に下った簗沢への峠道を押さえる位置に「コ」の字の 土塁と空堀が残る(左1,2画像)。 館山は山頂部が平坦で特に凝った作りではなく(左3画像)、 西側に空堀が2重になっており、 何のために作られたのか分からないが、堀の中に数十cmの畝がある(左4画像)。 西にある3重空堀は見ようによっては2重に見える。 1本の空堀はやや浅く、途中で途切れており、 残りの2本は麓の内城まで伸びている。

東空堀1 東空堀2 主郭 主郭空堀 3重空堀1 3重空堀2

高楯城

上山市【最寄り駅】JR奥羽本線かみのやま温泉駅

斯波兼頼の子直家の2男頼直が天童に封じられ、 その子満長が応永初期頃(1403頃)上山に封じられ、虚空蔵山に築城した。 永正11年(1514)伊達稙宗との戦いに敗れ、小簗川親朝が城主となった。 その後和睦したが、永正17年(1520)再び伊達稙宗に支配された。 天文4年(1535)武衛義忠が伊逹氏から奪回し、 天神森に築城し、月岡(上山)城と称した。(現地案内板・大系より)
虚空蔵山山頂に主郭、西側の平たん地に白土平曲輪、 少し北に下った平坦地に北平曲輪があり(最右画像)、 麓からの登城路に巨大な空堀が残る(下段画像)。 主郭には遺構らしい遺構もなく(左3画像)、 下った北西側に空堀がある(左4画像)。 その向こう側に白土平曲輪があり、 藪化しており、綺麗に成形はされておらず、 北西へ行くと、空堀が2本空堀があり、 その先には蛸壺という点線状になった穴が残っている。

高楯城遠景 主郭 主郭1号堀 白土平1号堀 北平曲輪
東空堀

鶴ヶ岡城


鶴岡市【最寄り駅】羽越本線鶴岡駅

前身の大宝寺城を武藤景頼が築城したと伝わるが場所が定かでない。 武藤氏は天文年間(1532〜55)晴時の時に尾浦城に本拠を移し、 大宝寺城は支城であった。 天正16年(1588)本庄繁長に焼き払われ、上杉氏が庄内を領有したが、大宝寺城は支城のままであった。 関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)最上義光が城代新関因幡守に整備させ、慶長8年3月に名前を鶴ヶ岡城と改称した。 元和8年(1622)最上氏が改易されると信濃松代から酒井忠勝が入った。以後造営が始まり、 忠当、忠義の3代50余年かかって完成した。(大系より)
本丸は荘内神社となっている。当時は2重の水掘りによって囲まれていたようだが、 今は東側は埋められている。城内には所々、土塁が残っている。




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