最上家の本城。関ケ原の戦いの時、押し寄せる上杉軍の前に固守した。 江戸初期に跡目相続争いで最上家は改易となった。
天文4年(1535)
斯波兼頼の曾孫里見満長の子孫武衛義忠が築城。最上氏の居城となったが、
元和8年(1622)最上家が改易になり、
能見松平氏、蒲生氏と続き、土岐氏2代の頃にもっとも整備された。
元禄5年(1692)転封後、幕府により跡形もなく破壊された。
その後、金森氏、藤井松平氏と明治維新まで続いたが、
一部を修復するにとどまった。(現地案内板より)
月岡神社のある辺りが城址だったようであるが、
境内となっており、削られてしまっている。
模擬天守閣との間に土塁らしい跡が残っている。
伊達政宗はこの城で誕生。江戸期は上杉家の城。上杉鷹山の像がある。
大永年間(1521〜28)小野寺氏家臣(客将?)佐々木典膳正貞綱が築城した。
また現地案内板には天文4年(1534)に築城したとある。
その後、武藤氏に敗れ、和睦した後も城主で、
その子秀綱の時に最上義光により落城されたが、
最上氏の上席家老となり鮭延越前守となり城主のままであった。
が、元和8年(1622)に最上家が改易となり、その後戸沢政盛が城主となったが、
寛永2年(1625)新庄に移り廃城となった。
(現地案内板と大系より)
真室川に面した台地の上に位置する。
やや薮化していて遺構は確認しにくいが、搦め手口からの登山道だと、
比較的明るい森林帯で虎口など確認できる(最左画像)。
一方、大手口の方は北側の方でシダ系の植物も多くじめっとしていて、
遺構も分りにくい。大手口の虎口も薮化している(最右画像)。
『南出羽の城』記載の縄張り図によれば、南東部に3条の堀切や、
畝状竪堀があったようであるが確認し損ねた
(実際薮で確認できるかどうかは分らない)。
また真室川に面した曲輪は川沿いの道路拡張のために削られたと、
現地住民の方がおっしゃっていた。
寛永2年(1625)戸沢政盛が鮭延城から移って、鳥居忠政により縄張りで築城した。
戸沢氏は明治維新まで続いた。
慶応4年(1868)7月、庄内勢に攻められ落城した。
二重の堀で囲まれていたようであるが、
現在は内側の1本の堀が市民の憩いの場となっているようである。
また南西部は湿地帯であったためか掘り起これてなかったようで、
さらに北の部分は埋められたのか現在は水もなくやや掘り下がった状態である。
本丸には戸沢神社が祀られてある。
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