浅野家が広島に移封された後、徳川頼宣が入り、ここに御三家の1つ紀伊藩 が興る。
延徳年間(1489〜1492)国造俊連が築城したという。
以後、太田党の本城となった。
天正13年(1585)に秀吉軍に攻められ、降伏せず、籠ったが、
1ヶ月後太田左近宗正らが切腹し開城した。
備中高松城、
忍城と並ぶ、3大水攻めの1つとされている。
来迎寺境内に石碑が残る。大立寺に大門が残っている。
天正5年(1577)鷺の森にいた顕如が織田軍に攻められた際に、この山に入った。
雑賀党は始めこそ善戦したが、3月中旬には、7人の連署で誓紙を出し、降伏した。
現在は秋葉山公園となって遊具や芝生の広場となっており、かつての面影はない。
説明板のある辺りが最高地であるようで本丸であったか。
鈴木佐太夫が築城した。天正5年(1577)の雑賀合戦で一時は織田軍を退けたが、
力負けし、佐太夫は切腹し、孫市は降伏した。
養珠寺の裏手にある山が城址で、津屋公園・城跡山公園となっている。
山の南端に妙見堂があり、これより北側が城址であったらしいが、
灯台の跡が残るくらいで遺構らしい物は何一つもない。
「千畳敷」と呼ばれる平坦地も残っているが、とてもじゃないが千畳は布けない。
湯浅宗重が築城したという。屋島の戦いで敗れた平家の一部が湯浅氏を頼り落ちのび、
さらに熊野湛増親子らも加勢し、頼朝軍に抵抗した。
その後、畠山氏の居城となり、根来、雑賀党と織田方に対抗したが、
天正13年(1585)秀吉軍に落城された。
現在みかん畑の登った所にあり、城址への標識が途中で分らなくなったが、
再び見付け城址まで行けた。みかん畑の辺りが難しい。
城址の手前に堀切(右端画像)が残り、城址は3段からなる曲輪から構成される。
日本城郭大系にある縄張り図の本丸から一の郭が見付けられなかった。
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