湯川光春が室町時代初期に築城した。その後、屋敷を小松原に置いた。
その後、湯川氏は畠山氏を凌駕したが、
天正13年(1585)秀吉方に属こうとした和佐手取城主の玉置氏を攻め、
結局秀吉軍に攻められ落城した。
現在は山頂付近に土塁で囲まれた曲輪が残っている。
また、南側に伸びる山道の途中にも腰曲輪らしい跡も残っている。
湯川直光が亀山城が寒風の頃は住みにくいことから館を築いたという。
現在は湯川神社となり、かつての水堀が少し残っている。
慶長11年(1606)浅野氏により築城された。元和5年(1619)浅野氏が安芸国へ転封となると、
その後、安藤直次が田辺城主となった。安藤氏となってからも改修され、
明治維新まで幾度か改修され続けた。
明治維新近くまで改修を受けたにも拘わらず、現在は水門しか残らない。
慶長6年(1600)10月、浅野幸長が紀伊に入ると、
浅野忠吉が2万8千石で新宮に入った。翌年築城を開始した。
その後元和元年(1615)一国一城令で廃城となったが、
元和4年(1618)に再建を許され再び築城が始まった。
元和5年に浅野氏が安芸へ転封となると、徳川頼宣が紀伊に入り、
新宮には付け家老の水野重仲が入った。寛永10年(1633)に完成となった。
以後明治維新まで続いた。(現地説明版より)
新宮川に北面している。大手口のあった二の丸は住宅地となっており、石塁などが残っている。
松ノ丸・鐘ノ丸を経て、本丸に辿り着く。
かつては鐘ノ丸・松ノ丸に旅館が、南側にはケーブルカーがあったそうであるが、今はない。
水ノ手郭へ下る道は崩壊で立ち入り禁止になっているため、西側の住宅地を経由する必要がある。
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