天正10年、毛利方の清水宗治は、羽柴秀吉に攻められたが、
水はけの悪い地の利を利用して、篭城した。
逆にその地の利を利用され、足守川の水を堰き止め、
水攻めされた。篭城1月の後、本能寺の変をきっかけに秀吉と
毛利で講和が成立し、清水宗治は切腹した。
江戸初期に花房氏の陣屋が置かれたが、その後、廃城となった。
今でも、城址の周辺は湿地帯の名残がある。
本丸には、太閣石から移した清水宗治の首塚がある。
関ケ原後、もともと山城があった鶴山に、
川中島藩から森忠政が186,500石で入府し、13年掛けて築城した。
4代長成の時に断絶となり、結城秀康の曾孫松平宣富が10万石で入り、
明治まで松平家が続く。
石垣を大量に使った、大規模な平山城。
今年(2005年)備中櫓が復元された。
三村元親が築城し、重臣戸川達安が城主となる。
江戸期の途中から(1699年)から板倉氏の居城となる。
堀と神社だけが残る。
成羽城主三村家親が宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれる。
秀吉の毛利攻めの際に城主井上有景とで合戦が行われた。
その後、備中は宇喜多家の支配するところとなり、
廃城となる。
江戸期に、戸川氏の領地となり、4代目安風の時に断絶後、
弟達富が庭瀬に知行所を設けた。(安風で断絶し、改易されたようだが?)
本丸だけ残り、石塁が残っている。
湿地帯にあった城のようで、筑紫平野や佐賀平野の城と類似点が多い。
慶長の始めに宇喜多秀家により築城され、
関ケ原後、岡山藩主小早川氏家臣平岡石見が城主となり、
小早川家断絶後は、岡山藩主池田忠継家臣池田長政が城主となり、
池田由之、荒尾田島、池田由成と城主は移り変わった後、廃城となった。
東西に細長い山城である。本丸には天守跡もある。
瀬戸内海を警戒しての支城だけあって展望は非常に良い。
古城と云われる、現祇園神社までは峯続きなので、一体となっていたのか。
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