宇都宮頼綱の四男多功宗朝がその二男朝定(または三男に)に与えて
建武年間(1334〜1338)に築城したという。
永禄元年(1558)上杉謙信の多功城攻めで、
児山城主児山兼朝が討ち死にし廃城となった。
現在、華蔵寺の横にあり、本丸を囲む土塁と堀はよく残っている。
また本丸南側にも2段堀がだいぶ浅くなってはいるが、残存している。
城主であった岡本氏は元々芳賀姓であり芳賀氏と行動を共にした。 岡本北小の北側に位置し、稲荷社から行くと、深い空堀がある。 本丸は北と東を九郷半川の河岸段丘面とする崖で、南側を深い堀で、囲んでいる。 また南側には虎口が残っている。 西側にはさほどの落差もなく曲輪が続いていたようだ。
鎌倉時代末期に氏家氏が築城した。
その後、芳賀氏により防備は強化され落城することはなかったが、
結局慶長2年(1597)宇都宮氏の改易とともに廃城となった。
現在、城址は勝山城址公園として整備されている。
西側を鬼怒川が流れ、本丸は南東と西側に虎口があり、土塁に囲まれた、
菱形の形状をして、その北側に二の丸北郭、
東側と南側には広大な曲輪の跡が残る。
鎌倉時代、氏家氏の始祖公頼の頃築城されたという。
時代の変遷とともに防備もしたが、結局、
慶長2年(1597)勝山城とともに廃城となった。
現在は、氏家小の校内の北東部にのみ土塁が残っている。
小学校の移転で破壊されてしまったとか、残念。
那須太郎資氏の次男、沢村五郎資重が応永25年(1418)築城したという。
以後、8代172年間続き、資晴の時に秀吉により没収となり、那須氏は没落した。
その後、成田氏、堀氏と城主が代わり、織田信雄も2ヶ月間城主となった時期も
あった。
現在、寿亀山神社のある、
三の丸は江戸期、元治2年(1659)堀親昌が築いたが、明治5年大雪で崩壊した。
城山山頂にあり、やや薮化している。
というかハイキングコース以外は完全に薮化している。
やや薄暗い所で気味が悪いが、深い空堀、土塁、切岸、石塁など、
残存状況は良い。整備すればもっと見応えがありそうである。
また麓の寿亀山神社は三の丸の跡だったようで、平時の城館があったようで、
平坦面からもそれが窺い知れる。
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