永禄年間(1558〜70)に築城されたという。
小田原城の防備において重要な城であった。
城番を置いていたが、北条氏勝が城主、松田康長を城番とした。
その後、修築・拡張を重ね、天正18年の秀吉の北条征伐で落城するまで、
修築を行なっていて、完成することなく落城した。
徳川軍が西の丸方面を、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末が、
岱崎丸を攻め、一柳直末は鉄砲により討ち死にしたが、
上方軍の多数に及ばず、北条氏勝が退却し、
松田康長以下、戦死した。
現在は、国指定の史跡公園となっていて、
保存状況は良好である。惜しむらくは、国道1号線か。
「山中城=障子堀」という程で、西の丸と西曲輪の間に、残っている(左端画像)。
また、その他の空堀も深くて規模が大きい。
本丸と北の丸の間にある空堀(右端画像)が典型的な山城に見られる堀で、
妙にほっとした。
旧東海道(国道1号)が貫通しており、
街道を押さえるための城であったのだろう。
永享の乱の後、蔭山勘解由により築城された。
が、延徳3年(1491)北条早雲に火攻めされ、落城した。
その後、北条氏に従い、天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際に、
水軍に攻められ落城した。
城山の山頂に本丸(左画像)など小さい曲輪があり、
本丸の南側からの大手道の両脇に数段の切岸が残っている(当時の物かは不明)。
また本丸の北側にも2段の曲輪が伸びており、
堀切(右画像)と竪堀らしき跡があった。
延元2年(1337)志水長門守が築城したという。
天正16年(1588)北条水軍の拠点として改修され、清水太郎左衛門康英が入った。
天正18年(1590)の秀吉の北条征伐の前に、高橋氏、村田氏などが入城し、
さらに小田原から副将として江戸朝忠、検視として高橋郷左衛門が派遣されてきた。
が、脇坂安治、長宗我部元親。安国寺恵瓊らの水軍に攻められ、
約50日に及ぶ籠城の末開城した。江戸時代に入り、廃城となった。
現在は、城山公園となり、公園化されている。
本丸(左端画像)を中心に遺構は残っており、
本丸裏の切り通しと土橋(左2画像)、
さらに尾根を利用した曲輪とそれの西側に空堀(左3画像)が残る。
南北朝の頃、北朝方の今川氏が南朝方の狩野氏に対して築城し、
以後、今川館の詰の城として使用されたという。
天正10年(1582)徳川家康が駿府に入り廃城となった。
現在は静岡浅間神社の裏手の賤機山の尾根上に遺構が残っている。
南側に大堀切があり(画像左端)、北側にも堀切がある(画像右端)。
その間にある本丸とおぼしき場所は土塁に囲まれた構造となっている。
室町時代初期に横地氏により築城されたと推定される。
以後、横地氏の本城であった。
しかし応仁の乱により、西軍斯波義廉方に属いたために東軍に属いた今川氏と
戦うことになり、文明8年今川義忠に攻められ、横地秀国は討死した。
その後、今川氏親の依頼で伊勢新九郎長氏が反今川勢力を掃討し、
横地氏家臣、松井氏と二俣氏が横地氏旧領の大半を治めたという。
現在、東横地の丘陵上にあり、
西側の割合平坦な場所には藤丸館跡、武衛館跡など残る。
城址は、互いに独立した山にそれぞれ、
西の城(二の丸)、中の城、東の城(本丸)からなる。
西の城は横地太郎神社となっており、腰曲輪が数段、土塁や空堀が残る(左1,2画像)。
中の城の東側には木戸跡と見られる土塁も残る(中央画像)。
東の城は南側が崖で北側に井戸などあり、
そこから続く尾根上に堀切など残っている(右1,2画像)。
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