元亀元年(1570)、家康が曳馬城を拡張して築城した。
その後、秀吉の天下統一後は堀尾吉晴が城主となり、天守閣を築いた。
江戸時代には、譜代の大名が入り、要職に就くことから、
出世の城といわれる。
現在は、野面積みの石垣がよく残っている。
その他は、公園化され、余り遺構が分らない。
曳馬城は道路を挟んだ今の東照宮にあった。
武田信玄に撃退された、三方ヶ原はすぐ近くである。
飯尾連竜が今川氏真に謀殺された後、家康が規模を拡張し、浜松城を築城した。
現在は東照宮となってその境内となっている。遺構はよく分らない。
長禄元年(1457)古河公方足利成氏に対抗するために、
室町幕府は義政の弟政知を鎌倉に送り込んだが、箱根を越えることが出来ず、
鎌倉時代に北条氏の館があった、堀越に御所を築いた。
その子、茶々丸の時に伊勢宗瑞(北条早雲)が扇谷上杉定正と共に攻め込み、
茶々丸は守山城に逃げたが、結局麓の願成院で自害し、滅亡した。
現在、国指定の遺跡となっているが、跡らしい物はない。
近くに北条氏の屋敷跡とされる地もあるが同様。
また北条政子の産湯の井戸が近くにある。
北条早雲が延徳3年(1491)堀越公方を落とし、ここに築城した。
天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際、北条氏規が城主となり、
秀吉軍の大軍に包囲された。3ヶ月の籠城後、氏規は家康に降伏し、
その後、北条氏の滅亡後も存続した。
氏規の降伏後は内藤信成が入り、慶長6年(1601)信成の転封で廃城となった。
現在、本丸と云われている所には神社があるが、土塁に囲まれている(右端画像)。
その南側に堀切と土橋があり(左端画像)、物見台と云われる高台がある。
その西側には四方を土塁で囲まれたエリアがある(中央画像)。
韮山城の南端の切り通しから尾根伝いに道がある。 痩せ尾根で兵の駐屯は難しく感じた。 本丸の南側に堀切(画像)があった。さらに西へ下ると、 和田島砦との間にも曲輪や堀切が残っている。 土手和田砦にはかなり遺構があったようだが、見逃した。
康安元年(1361)鎌倉公方の執事畠山国清が足利基氏に叛旗を翻して挙兵した。
基氏の差し向けた軍勢を一旦退けたが、
貞治元年(1362)態勢を整えた鎌倉軍の前に籠城虚しく降伏した。
麓の城山神社から道があるようだが、トンネルを抜けずに、尾根伝いにも道があった。
山頂にはロープウェイの跡が最早遺跡にようになっており、電波塔などがある。
山頂近辺には石塁があったが、だいぶ人の手も入っており、
当時の物とは想像しなかったがどうであろうか。
井戸跡もあったようだが、これも気が付かなかった。
はっきり遺構だと確信したのは、
南端の神社の裏手に切岸と曲輪の跡があったくらいである。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。