駿河・遠江・伊豆3



浜松城曳馬城堀越御所韮山城修善寺城

浜松城


浜松市【最寄り駅】JR東海道本線浜松駅

元亀元年(1570)、家康が曳馬城を拡張して築城した。 その後、秀吉の天下統一後は堀尾吉晴が城主となり、天守閣を築いた。 江戸時代には、譜代の大名が入り、要職に就くことから、 出世の城といわれる。
現在は、野面積みの石垣がよく残っている。 その他は、公園化され、余り遺構が分らない。 曳馬城は道路を挟んだ今の東照宮にあった。 武田信玄に撃退された、三方ヶ原はすぐ近くである。

天守閣1 天守閣2

曳馬城


浜松市【最寄り駅】JR東海道本線浜松駅

飯尾連竜が今川氏真に謀殺された後、家康が規模を拡張し、浜松城を築城した。
現在は東照宮となってその境内となっている。遺構はよく分らない。

城碑 東照宮 遺構?

堀越御所


伊豆の国市(旧韮山町)【最寄り駅】伊豆箱根鉄道韮山駅

長禄元年(1457)古河公方足利成氏に対抗するために、 室町幕府は義政の弟政知を鎌倉に送り込んだが、箱根を越えることが出来ず、 鎌倉時代に北条氏の館があった、堀越に御所を築いた。 その子、茶々丸の時に伊勢宗瑞(北条早雲)が扇谷上杉定正と共に攻め込み、 茶々丸は守山城に逃げたが、結局麓の願成院で自害し、滅亡した。
現在、国指定の遺跡となっているが、跡らしい物はない。 近くに北条氏の屋敷跡とされる地もあるが同様。 また北条政子の産湯の井戸が近くにある。

伝堀越御所

韮山城


伊豆の国市(旧韮山町)【最寄り駅】伊豆箱根鉄道韮山駅

北条早雲が延徳3年(1491)堀越公方を落とし、ここに築城した。 天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際、北条氏規が城主となり、 秀吉軍の大軍に包囲された。3ヶ月の籠城後、氏規は家康に降伏し、 その後、北条氏の滅亡後も存続した。 氏規の降伏後は内藤信成が入り、慶長6年(1601)信成の転封で廃城となった。
現在、本丸と云われている所には神社があるが、土塁に囲まれている(右端画像)。 その南側に堀切と土橋があり(左端画像)、物見台と云われる高台がある。 その西側には四方を土塁で囲まれたエリアがある(中央画像)。

堀切と土橋 土塁1 土塁2

天ヶ岳砦

韮山城の南端の切り通しから尾根伝いに道がある。 痩せ尾根で兵の駐屯は難しく感じた。 本丸の南側に堀切(画像)があった。さらに西へ下ると、 和田島砦との間にも曲輪や堀切が残っている。 土手和田砦にはかなり遺構があったようだが、見逃した。

天ヶ岳砦堀切

修善寺城


伊豆市(旧修善寺町)【最寄り駅】伊豆箱根鉄道修善寺駅

康安元年(1361)鎌倉公方の執事畠山国清が足利基氏に叛旗を翻して挙兵した。 基氏の差し向けた軍勢を一旦退けたが、 貞治元年(1362)態勢を整えた鎌倉軍の前に籠城虚しく降伏した。
麓の城山神社から道があるようだが、トンネルを抜けずに、尾根伝いにも道があった。 山頂にはロープウェイの跡が最早遺跡にようになっており、電波塔などがある。 山頂近辺には石塁があったが、だいぶ人の手も入っており、 当時の物とは想像しなかったがどうであろうか。 井戸跡もあったようだが、これも気が付かなかった。 はっきり遺構だと確信したのは、 南端の神社の裏手に切岸と曲輪の跡があったくらいである。



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