駿河・遠江・伊豆14



戸倉城梅縄城長浜城三津城金山城

戸倉城


清水町

北条氏綱が築城したという(現地説明版)。 北条氏と今川氏の抗争が激化した天文(1532〜55)初期に築城されたと推測されている(大系)。 永禄11年(1568)から元亀2年(1571)にかけて、北条氏と武田氏でここで戦った。 永禄12年頃には北条氏堯が城将であった。 天正11年(1581)氏堯の家臣笠原新六郎範定(松田憲秀次男)が武田方に寝返り、 翌年武田氏が滅亡し、再び北条氏の持ち城となった。 天正18年(1590)秀吉の北条征伐が始まると、 ここを捨て韮山城へ移り、その後廃城になったという。
本曲輪付近は公園化されてしまい、雰囲気はあるものの余り遺構は見当たらなかった(最左画像)。 龍泉寺が居館跡でその南側から登城路があったようであるが、未確認。 南側の尾根上にある、八坂神社の南側に堀切が2本残っている(右2画像)。


梅縄城


三島市【最寄り駅】伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅

北条氏家臣の朝倉平次郎(130貫)の館があり、白雲屋敷と呼ばれた。 その後、天正18年(1590)北条氏滅亡後、家康の領地となり、 石川日向守家成は家督を長門守康通に譲り、 隠居所として5千石で外孫の忠総、成尭とここに住んだ。 元和元年(1615)大坂夏の陣で成尭が討ち死にし、廃城となった。 (現地説明版より)
現在は、雰囲気の良く残る梅名地区の一角に稲荷神社があり、その横に石碑があるだけである。


長浜城


沼津市【最寄り駅】伊豆箱根鉄道駿豆線伊豆長岡駅

文献に出てくる数は少ないらしく、 天正7年(1579)北条家朱印状が最古で、また天正17年頃氏政が氏規に宛てた書簡に、 大川兵庫に城番をさせていたことが載っている。(静岡の山城、大系より)
国指定遺跡となり、かなり丁寧な説明版とともに整備されている。 内浦湾に突き出た小さな半島上におおまかに4つの曲輪とその他の小さな腰曲輪からなる。 主要な曲輪には全て陸側に土塁が残っており、曲輪間は堀切によって明確に分断されている。 一曲輪から海の方へ腰曲輪が数段続き、そのまま海へ下ることができる。


三津城


沼津市・伊豆の国市(旧伊豆長岡町)【最寄り駅】伊豆箱根鉄道駿豆線伊豆長岡駅

康安元年(1361)畠山国清が鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、 弟義深、義煕とともに伊豆にて挙兵した際に築いた畠山三城の一つである。 義煕がここを守備したが、基氏軍に早々に落城された。(大系より)
発端丈山の山頂部だそうだが、山頂には何もない(最左画像)。 それより北に少し行った辺りに、堀切と郭跡が残っている(左2画像)。 長浜と三津との三分岐より北東の三津への下山路に、 堀切と曲輪のセットの遺構が2か所ある。


金山城


伊豆の国市(旧大仁町)【最寄り駅】伊豆箱根鉄道駿豆線大仁駅

康安元年(1361)畠山国清が鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、 弟義深、義煕とともに伊豆にて挙兵した際に築いた畠山三城の一つである。 義深が守備したが、基氏軍の前に、三津城とともに早々に落城した。(大系より)
大岩壁の山で大仁からも目立つ。城山であるが、歴史に関する案内板は一切なかった。 山頂は岩で構造物があったようには思えず、 見晴らしはよく見張り用だったか。 山頂から下った辺りに数段の削平されたような跡、 堀切のような物が残っているだけである。




前へ 次へ

このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。


戻る