北条氏綱が築城したという(現地説明版)。
北条氏と今川氏の抗争が激化した天文(1532〜55)初期に築城されたと推測されている(大系)。
永禄11年(1568)から元亀2年(1571)にかけて、北条氏と武田氏でここで戦った。
永禄12年頃には北条氏堯が城将であった。
天正11年(1581)氏堯の家臣笠原新六郎範定(松田憲秀次男)が武田方に寝返り、
翌年武田氏が滅亡し、再び北条氏の持ち城となった。
天正18年(1590)秀吉の北条征伐が始まると、
ここを捨て韮山城へ移り、その後廃城になったという。
本曲輪付近は公園化されてしまい、雰囲気はあるものの余り遺構は見当たらなかった(最左画像)。
龍泉寺が居館跡でその南側から登城路があったようであるが、未確認。
南側の尾根上にある、八坂神社の南側に堀切が2本残っている(右2画像)。
北条氏家臣の朝倉平次郎(130貫)の館があり、白雲屋敷と呼ばれた。
その後、天正18年(1590)北条氏滅亡後、家康の領地となり、
石川日向守家成は家督を長門守康通に譲り、
隠居所として5千石で外孫の忠総、成尭とここに住んだ。
元和元年(1615)大坂夏の陣で成尭が討ち死にし、廃城となった。
(現地説明版より)
現在は、雰囲気の良く残る梅名地区の一角に稲荷神社があり、その横に石碑があるだけである。
文献に出てくる数は少ないらしく、
天正7年(1579)北条家朱印状が最古で、また天正17年頃氏政が氏規に宛てた書簡に、
大川兵庫に城番をさせていたことが載っている。(静岡の山城、大系より)
国指定遺跡となり、かなり丁寧な説明版とともに整備されている。
内浦湾に突き出た小さな半島上におおまかに4つの曲輪とその他の小さな腰曲輪からなる。
主要な曲輪には全て陸側に土塁が残っており、曲輪間は堀切によって明確に分断されている。
一曲輪から海の方へ腰曲輪が数段続き、そのまま海へ下ることができる。
康安元年(1361)畠山国清が鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、
弟義深、義煕とともに伊豆にて挙兵した際に築いた畠山三城の一つである。
義煕がここを守備したが、基氏軍に早々に落城された。(大系より)
発端丈山の山頂部だそうだが、山頂には何もない(最左画像)。
それより北に少し行った辺りに、堀切と郭跡が残っている(左2画像)。
長浜と三津との三分岐より北東の三津への下山路に、
堀切と曲輪のセットの遺構が2か所ある。
康安元年(1361)畠山国清が鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、
弟義深、義煕とともに伊豆にて挙兵した際に築いた畠山三城の一つである。
義深が守備したが、基氏軍の前に、三津城とともに早々に落城した。(大系より)
大岩壁の山で大仁からも目立つ。城山であるが、歴史に関する案内板は一切なかった。
山頂は岩で構造物があったようには思えず、
見晴らしはよく見張り用だったか。
山頂から下った辺りに数段の削平されたような跡、
堀切のような物が残っているだけである。
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