駿河・遠江・伊豆13



掛川城掛川古城小笠山砦高天神城泉頭城

掛川城


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明応〜文亀頃(1492〜1504)、または永正2年(1505)、永正9年(1512)に築城された年代は定かでない。 朝比奈泰能は掛川古城より堅固なこちらへ移った。 永禄11年(1568)12月朝比奈泰朝は、武田信玄により駿府を追い出された、 今川氏真以下3千人を迎い入れ、徳川勢を相手に半年持ちこたえ、 奥平美作守貞能らの奔走により、開城し、掛塚港から今川氏真と共に伊豆戸倉城へ移った。 その後、石川家成・康通親子が入城、天正18年(1590)家康が関東へ移封となると、 山内一豊が城主となり、関東を意識した城下町作りがなされた。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、山内一豊は高知へ転封となり、 その後、松平(久松)定勝が入り、以後めまぐるしく城主が変わり、 延享3年(1746)に館林から太田資俊が入り、明治維新まで続いた。
現在は、天守閣も復元され、十露盤(そろばん)堀(左3画像)や三日月堀(左4画像)、大手門(最左画像)なども再現されている。 安政元年(1854)の大地震により倒壊した本丸御殿は翌年再建され、今に残っている。 本丸御殿の横には土塁が残っていた(最右画像)。


掛川古城


掛川市【最寄り駅】JR東海道新幹線・JR東海道本線・天竜浜名湖鉄道掛川駅

文明年間(1469〜87) 応仁の乱の際に東軍に属した、今川義忠が西軍に属した遠江守護職の斯波義廉に与する土豪に備えるために、 朝比奈泰煕に築城させた。 その後、永正10年(1513)泰能の時に現在の掛川城のある龍頭山へ移った。 以後は、新城の搦め手の出城的な位置となり、 永禄12年(1569)徳川家康は掛川城攻めでここに本陣をおいた。 明暦2年(1656)北条出羽守氏重は3代将軍徳川家光の霊牌を安置し、 大猷院殿霊廟を造営し、今に至っている。(大系より)
現在は、その御霊屋の裏手に土塁らしい高まりと、 その背後に巨大な堀切が残る(両画像)。


小笠山砦


掛川市・袋井市

永禄11年(1568)徳川家康が、掛川城に籠る今川氏真と高天神城の小笠原長忠を分断するために築城した。 高天神城主小笠原長忠は徳川方に与し、掛川城攻めに加わることになった。 その後、天正7年(1579)武田方となった高天神城を包囲するために再び徳川勢が布陣した。
高天神城から県道251を歩いて北上してみたが、かなり距離があった。 小笠山神社により多少破壊された感じはあるが、遺構は痩せた尾根上に良く残っている。 小笠山神社から向かうと、堀切があり(最左画像)、 その先に横堀を伴った曲輪に至る(左2画像)。 櫓台のような曲輪があり、前を堀切で断ってある(左3画像)。 その先が、笹ヶ峰御殿と呼ばれる所で、三角形の平たん地で広くもなく、 錆びた案内板が倒れている。 その先の多門神社周辺は三又状に道が分かれるエリアで、 空堀が複雑な構造をしている(右2画像)。 南西部の大須賀町方面に伸びる道には堀切(左4画像)があり、その先に曲輪が1つあり、 道は下り最後は堀切がある。 また、多門神社から先で三又となり、西端は最右画像のように曲輪が数段ある。 また北の掛川市内方向にも道は伸び、掛川まで歩いて下山した。


高天神城


掛川市(旧大東町)

鎌倉時代に土方次郎義政が築城したといわれるが定かでない。 応永23年(1416)今川範政が今川了俊の進言により築城したというのが定説であるが、 これも怪しく、今川氏親が遠江に進出しだした、明応・文亀年間(1492〜1504)前後と推測されている。 永禄12年(1569)今川氏没落後、徳川氏に従う、小笠原長忠が城主で、 元亀2年(1571)武田信玄が内藤昌豊に攻めさせたがこれは失敗した。 信玄没後、天正2年(1574)5月勝頼が2万の兵で遠江に攻め入り、6月に西の丸が落ち、 1か月の籠城の末に開城に至った。城番に横田甚五郎尹松を入れた。 翌3年に長篠の戦で大敗し、天正6年(1578)3月家康は高天神城攻めの拠点として、 大須賀康高に横須賀城を築かせた。 城将は駿河先方衆の岡部丹波守真幸、横田尹松は軍監となった。 天正8年(1580)10月家康は、小笠山、中村、能ヶ坂、火ヶ峰、獅子ヶ鼻、三井山の六砦を築き、 包囲網を布いた。翌9年3月22日榊原康政、本多忠勝、鳥居元忠らが激しく攻め立て、 岡部真幸は討ち死に、横田尹松は脱出した。 落城後、廃城となった。
東西に2つの「H」状の構造を持つ。 遺物の面から東峰の方が古いとのこと。 大手口は東峰の南端にあり、搦め手口は東峰と西峰の真ん中の井戸曲輪、鐘曲輪(最左画像)に位置する。 東峰は元来の地形を利用した、やや古いタイプの印象を受けた。 大手門を登って行くと、到着櫓、三の丸と続き、本丸である、御前曲輪(左2画像)に至る。 東側は切り立った崖になっており、狭い帯曲輪に、家康家臣の大河内政局が幽閉された石風呂が残っている(左3画像)。 御前曲輪の北側に下ると、二の丸、的場曲輪があり、鐘曲輪に至る。 一方、西峰は、北側の尾根上に井楼曲輪、堂の尾曲輪、二の丸と堀切を挟んで続き(左4画像)、 その左から北側にかけて、横堀が巡っている(左5,6画像)。 最高所には今は江戸時代に東峰から遷したといわれる高天神社がある。 その背後から西へ続く、痩せた尾根には、堀切を挟んで、馬場平、さらに堀切を挟み、横田尹松が脱出した、 「犬戻り猿戻り」へと続く。


泉頭城


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築城時期は分かっていない。 「駿河記」によれば、弘治年間(1555〜58)に築城し、北条氏家臣多目周防守、荒川清兵衛が守将であった。 天正8年(1580)には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛をはじめ高橋、市南氏の足軽大将が守って、 戸倉城と連絡をとっていた。 天正18年(1590)秀吉の関東征伐の際に北条氏は廃城した。 その後、江戸時代に入り、元和元年(1615)家康はここが気に入り、老後の憩いの場として、 土井利勝と本多正純に隠居御殿を築城させようとしたが、翌年に家康が没してしまい、取りやめとなった。 (大系と現地説明版より)
大正時代まで遺構は良く残っていたらしいが、その後、製紙工場跡地となり、 現在は一部が柿田川公園となっている。 西曲輪だったという、貴船神社の辺りが、湧水群に対して突き出た半島状になっている(左画像)。




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