応永年間(1394〜1428)頃山内氏により築城されたという。
明応3年(1494)遠江に侵攻する今川氏親と遠江国守護斯波義寛の攻防戦で、
天方家5代通季の時、今川氏親が伊勢新九郎を大将とする軍勢を送り込み、
通季は今川氏に降った。
文亀元年(1501)、
一時斯波方に占領されたが、その後今川方が奪還した。
堅固な城の必要性から白山城を築城した。
(現地案内板・静岡の山城より)
現地案内板によれば、「天正2年(1574)4月徳川家康は、
犬居城攻めに失敗し、退却の際に三倉の田能・大久保で武田方の樽山城兵と光明城兵に待ち伏せに遭い、
三倉城に逃げ込むも要害でないので、当城に逃げ込んだ。」
とあるが、本城か新城かは分からない。
天方小学校の裏、神社を回り込んだ裏山である。
神社の裏手に堀切が1本あり、さらにの林道付近に堀切らしい大きな溝があるが、堀切か(左2画像)。
天方本城跡の標識に従えば、本曲輪までたどり着ける。
本曲輪は綺麗な平坦地でもなく、中心部分がややくぼんでいる(左3画像)。
本曲輪から奥へ派生する尾根上に、はっきりと分かる堀切があった。(最右画像)
天方通季が堅固な城の必要性から白山城を築城した。(静岡の山城より)
谷本神社の裏手であるが、登るのに道が分からず、すぐ横の寺院の墓地脇から登った。
すぐに尾根上にある数段続く帯曲輪に達する。
山頂部に本曲輪があり、平坦であるが、今は木々が林立している。
搦め手の方に下る尾根上には堀切と郭が良く残っている。
天方本城よりはより機能的な防御性を高めた構造である。
永禄11年(1568)遠江に侵攻した徳川家康に付近の諸城主らは屈服する中、
天方山城守通興と飯田城主山内大和守通泰は従わず、
翌年6月19日に通興は降伏した。
元亀3年(1572)武田信玄は大軍を率いて犬居城主天野氏の先導で押し寄せ、
通興は一戦も交えることなく徳川氏に身をよせ(現地案内板によれば武田方に従い天方城に入る)、
武田方に奪われた。
翌元天正元年(1573)平岩親吉を大将に、大久保新十郎忠隣、渡辺半十郎政綱、渡辺半蔵守綱が激しく攻め、
天方本城と白山城に拠る武田方の遠州先方衆の久野弾正忠宗政、
を破った。(現地案内板によれば通興は再び降伏した。)
現在、城ヶ平公園となっており、麓から乗用車でもアプローチできる。
レンタサイクルで登ってみたが、さすがに傾斜がきつくなり城址手前で断念した。
本曲輪の北側に曲輪を囲繞する横堀があり、その外側の二の曲輪の外側にも、
やや痕跡が薄くなりつつある横堀がある。
駐車場がやや破壊してしまっている感も否めない。
応永初年の頃(1400)天方城主山内対馬守道美が築城した(飯田古城)とされるが定かでない。
久通、通泰と続き、天文14年(1545)に現在の地に新城を築いたと推定されている。
その後、今川氏に従い、
永禄12年(1569)徳川家康の遠江平定の前に今川氏への忠節に背くことなく、
同年6月榊原康政と大須賀康高らに攻められ、主従もろとも討ち死にしたという。
元亀3年(1572)に武田信玄の侵攻の前に落城、以後5年間は武田方の城であったが、
その後徳川氏が取り返した。(大系と「静岡の山城」より)
本曲輪が果樹園?となっておりはっきりせず、
「山内対馬守道美公飯田城址」の石碑の立つ位置(御前郭)が縄張り図と照合しにくかった。
石碑の立つ土塁沿いに南下すると、西へ延びる尾根には堀切で断っていた(左2画像)。
西の山内氏館跡のある住居方向に曲輪が数段続いている(最右画像)。
幡鎌氏宛ての書状として、永禄3年(1560)の今川氏真、元亀3年(1572)武田家家臣土屋氏からの物があり、
現在最福寺のある辺りを居館にした幡鎌氏の城であった。(大系より)
最福寺(最右画像)の裏山にあるが、
寺の裏手に数段の曲輪らしい跡、西側に堀底道のような道があり(最左画像)、
空堀のようにも見えるが、
大系に記載のように、「未完成の曲輪や土塁の残片」で遺構かどうかもはっきりしない。
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