駿河・遠江・伊豆12



天方本城白山城天方新城飯田城幡鎌城

天方本城


森町【最寄り駅】天竜浜名湖鉄道遠州森駅

応永年間(1394〜1428)頃山内氏により築城されたという。 明応3年(1494)遠江に侵攻する今川氏親と遠江国守護斯波義寛の攻防戦で、 天方家5代通季の時、今川氏親が伊勢新九郎を大将とする軍勢を送り込み、 通季は今川氏に降った。 文亀元年(1501)、 一時斯波方に占領されたが、その後今川方が奪還した。 堅固な城の必要性から白山城を築城した。 (現地案内板・静岡の山城より)
現地案内板によれば、「天正2年(1574)4月徳川家康は、 犬居城攻めに失敗し、退却の際に三倉の田能・大久保で武田方の樽山城兵と光明城兵に待ち伏せに遭い、 三倉城に逃げ込むも要害でないので、当城に逃げ込んだ。」 とあるが、本城か新城かは分からない。
天方小学校の裏、神社を回り込んだ裏山である。 神社の裏手に堀切が1本あり、さらにの林道付近に堀切らしい大きな溝があるが、堀切か(左2画像)。 天方本城跡の標識に従えば、本曲輪までたどり着ける。 本曲輪は綺麗な平坦地でもなく、中心部分がややくぼんでいる(左3画像)。 本曲輪から奥へ派生する尾根上に、はっきりと分かる堀切があった。(最右画像)


白山城


森町【最寄り駅】天竜浜名湖鉄道遠州森駅

天方通季が堅固な城の必要性から白山城を築城した。(静岡の山城より)
谷本神社の裏手であるが、登るのに道が分からず、すぐ横の寺院の墓地脇から登った。 すぐに尾根上にある数段続く帯曲輪に達する。 山頂部に本曲輪があり、平坦であるが、今は木々が林立している。 搦め手の方に下る尾根上には堀切と郭が良く残っている。 天方本城よりはより機能的な防御性を高めた構造である。


天方新城


森町【最寄り駅】天竜浜名湖鉄道遠州森駅

永禄11年(1568)遠江に侵攻した徳川家康に付近の諸城主らは屈服する中、 天方山城守通興と飯田城主山内大和守通泰は従わず、 翌年6月19日に通興は降伏した。 元亀3年(1572)武田信玄は大軍を率いて犬居城主天野氏の先導で押し寄せ、 通興は一戦も交えることなく徳川氏に身をよせ(現地案内板によれば武田方に従い天方城に入る)、 武田方に奪われた。 翌元天正元年(1573)平岩親吉を大将に、大久保新十郎忠隣、渡辺半十郎政綱、渡辺半蔵守綱が激しく攻め、 天方本城と白山城に拠る武田方の遠州先方衆の久野弾正忠宗政、 を破った。(現地案内板によれば通興は再び降伏した。)
現在、城ヶ平公園となっており、麓から乗用車でもアプローチできる。 レンタサイクルで登ってみたが、さすがに傾斜がきつくなり城址手前で断念した。 本曲輪の北側に曲輪を囲繞する横堀があり、その外側の二の曲輪の外側にも、 やや痕跡が薄くなりつつある横堀がある。 駐車場がやや破壊してしまっている感も否めない。

横堀と土橋 西側の土橋 本曲輪横堀 二の曲輪横堀

飯田城


森町【最寄り駅】天竜浜名湖鉄道円田駅

応永初年の頃(1400)天方城主山内対馬守道美が築城した(飯田古城)とされるが定かでない。 久通、通泰と続き、天文14年(1545)に現在の地に新城を築いたと推定されている。 その後、今川氏に従い、 永禄12年(1569)徳川家康の遠江平定の前に今川氏への忠節に背くことなく、 同年6月榊原康政と大須賀康高らに攻められ、主従もろとも討ち死にしたという。 元亀3年(1572)に武田信玄の侵攻の前に落城、以後5年間は武田方の城であったが、 その後徳川氏が取り返した。(大系と「静岡の山城」より)
本曲輪が果樹園?となっておりはっきりせず、 「山内対馬守道美公飯田城址」の石碑の立つ位置(御前郭)が縄張り図と照合しにくかった。 石碑の立つ土塁沿いに南下すると、西へ延びる尾根には堀切で断っていた(左2画像)。 西の山内氏館跡のある住居方向に曲輪が数段続いている(最右画像)。


幡鎌城


掛川市【最寄り駅】天竜浜名湖鉄道原田駅

幡鎌氏宛ての書状として、永禄3年(1560)の今川氏真、元亀3年(1572)武田家家臣土屋氏からの物があり、 現在最福寺のある辺りを居館にした幡鎌氏の城であった。(大系より)
最福寺(最右画像)の裏山にあるが、 寺の裏手に数段の曲輪らしい跡、西側に堀底道のような道があり(最左画像)、 空堀のようにも見えるが、 大系に記載のように、「未完成の曲輪や土塁の残片」で遺構かどうかもはっきりしない。

最福寺


前へ 次へ

このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。


戻る