鎌倉時代末期に大内弘幸が銀山の守備のために築城したという。
戦国期になり、大内義興の時に尼子経久と銀山を巡る、取り合いとなった。
さらに小笠原氏もこの争いに乗じて支配するなどした。
天文20年の大内義隆の没落後は、尼子氏と毛利氏の間で取り合いになった。
尼子氏に属した、本城常光が城主となり、
毛利元就はこれを謀略で寝返らせた。その後、毛利氏の居城となったが、
関ケ原の戦いの後は、石見銀山は徳川家の天領となり廃城となった。
城門といわれるものが、麓の西本寺に残る。
城址まで道があるが、途中からひたすら階段となり、実に味気ない。
本丸周辺は薮っており、南側の空堀は確認できた。
さらに南側に畝状竪堀群があるとのことだったが、
薮で確認できなかった。また北側には石塁も少し残っているとのことだったが、
こちらも薮で確認できなかった。
北側は毛利氏、南側は尼子氏により改修されたと推測されている。
寛文6年(1666)松江藩の支藩3万石として松平近栄により創設され、
明治維新まで続いた。
現在は、社会福祉センターとなり、遺構は何もないようだが、
町を見下ろせるような少し高い位置にあることは分る。
鎌倉時代に頼朝により、佐々木高綱の弟、義清が館を構えたという。
室町時代に入り、京極佐々木高詮が出雲守護となると、
守護代として尼子持久が下向した。やがて主家である京極氏を凌ぐようになり、
経久の時に富田城から追放されたが、文明18年(1486)に奪回した。
その後、尼子氏は大内氏と争い、大内義隆に2度攻められたが、撃退した。
永禄9年(1566)義久の時に、毛利元就に兵糧攻めに遭い、
和睦して開城し、滅亡した。その後、毛利氏は天野隆重を城代とし、
元成5男の元秋が城主となったが、病死した。関ケ原の戦いの後、
堀尾吉晴が入城した。慶長16年(1611)3代目忠晴の時に松江城に移り、廃城となった。
標高183mの月山の山頂に本丸があり、北西に伸びる尾根に沿って、城址が残る。
飯梨川が広瀬の町を流れ、天然の堀となっている。
本丸と二の丸の間には深い空堀が残る(左2、3画像)。
三の丸まで山頂部にあり、中腹に山中御殿がある。
ここには石塁が多く、使用されており、尼子時代の物かどうかは疑問が残る。
山中御殿からさらに麓にかけて、花の檀、太鼓檀、千畳平と広い曲輪が続く。
菅谷口に下ると、里御殿が残り、塩谷口の方へ下ると、塩谷川の対面の山に、
明星寺跡があり、遺構が残る。
尼子経久の次男、国久の一族、新宮党の館跡。
毛利元就の陰謀による噂で、尼子本家の晴久は、
天文23年(1554)新宮党を誅殺し、その時、館も焼け落ちた。
富田城の北側にある新宮谷に位置し、今も雰囲気がある。
館跡には子孫の建立した神社があり、平坦地が残る。
室町時代に松田氏が築城したと推測される。
応仁2年(1468)に尼子清定により落城された。
その後、尼子十砦の1つとして重要な城となった。
それ故に、永禄9年富田城の落城前に児玉就忠により落城された。
安来港から突き出た位置にある、円錐状の十神山の山頂部にある。
本丸はやや高くなっており、それを囲むように平坦地が残るが、
後世の改変があったのか、全体的に遺構はよく分らない。
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