弘安の頃に地頭として下向した吉見氏が築城した。
関ケ原後、毛利家に従い長門に転地したために、坂崎出羽守直盛が入城した。
その際に現在の縄張となり、出丸の跡部丸が作られた。
が、坂崎直盛も大阪夏の陣の後に江戸藩邸で問題を起こして改易となり、
亀井家が入城し幕末まで続いた。天守閣は落雷で炎上して再建されなかった。
現在は亀井家の時代の大地震の後に修理された状態が残る。
大手門からの谷を沿う道の途中にも石塁がある。
また山頂近辺にはかなりの規模で石塁が残る。
麓には政庁跡があり、馬場先曲輪や物見櫓が残存する。
応安元年(1368)、
大谷土居屋敷にあった居館が火災に遭い、同3年頃にここに移った。
慶長5年に毛利氏に従い、長門の須佐に移るまで、ここに居館を置いた。
中心部分に道路が突き抜けているが、公園化されている。
最近まで建っていた、泉光寺が移築されることになったようで、
今後発掘されるのだろうか。元来、川と水堀で囲まれていたようで、
現在は墓地となっているが、東西に土塁が残っている(左右画像)。
鎌倉時代に益田兼高または兼時の時に築城したと推測される。
弘治2年(1556)藤兼の時に、吉川元春に攻められ、戦わずして、開城し、
毛利氏に従うことになった。
慶長5年(1600)益田氏20代元祥の時に関ケ原の戦いで敗れた毛利氏に家老として従い、
長門の須佐に移り、廃城となった。
西、東、南の尾根上に曲輪が展開される、広大な城址である。
西尾根曲輪群は古くから築かれていたらしく、太鼓の檀や千畳敷などの広い、
曲輪跡が残り、堀切などで断ち切ってある(左端画像)。さらに北へ曲輪は続くが、
薮化している。
西尾根曲輪群から東尾根曲輪群へ行く途中の谷に馬釣井という井戸が残る。
ここから登ると、本丸となり、居住した屋敷等の礎石が見付かっている。
ここから南へ曲輪群があり、畝状竪堀群が数条残っている(右端画像)。
南端まで行くと、堀切があり、薮化しているが、
城域はその辺りまでのようである。
東曲輪群は本丸から北へ同じ尾根の上に続き、深い空堀があり、
北上すると曲輪は続き、やや薮化しかける。
一旦右へ逸れて下り、曲輪があり、その先に畝状竪堀群があったようだが、
ここは確認しなかった。
ともかく、案内板もしっかりあり、
無駄に公園化もされずに遺構の残存状況も良い。
文永年間(1264〜75)に周布氏初代の益田兼季の次男、周布(御神本)兼定が築城した。
その後、大内氏に従い、さらに毛利氏に従い、関ケ原後は毛利氏と共に長州へ移った。
幕末の長州藩士で有名な周布政之助はその子孫である。
推古天皇の勅願により建立されたという、聖徳寺の横の墓地から登り口がある。
しばらく行くと、曲輪らしい平坦地(木々が繁茂)が現れ、堀切があり、
太鼓楼と呼ばれる、さらに広い曲輪が広がる。
さらに登ると、先ほどより深い空堀があり(左端画像)、二の丸に入る。
ここには虎口も残る(画像中央)。
この二の丸の中央部に本丸があり、北東方向に虎口らしい跡が残る。
全体的に木々が生えまくっている。
尚、聖徳寺には幕末、長州軍の放った鉄砲の弾痕が残っている。
元和6年(1620)5万4千余石で古田重治が築城した。その後、2代目で改易となり、
慶安2年(1649)松平康英(周防守家)が入り、宝暦9年(1759)に本多中務家、
その後、天保7年(1836)まで松平周防守家、その後、
松平斉厚(右近将監家)が入り、
慶応2年(1866)武聡の時、大村益次郎率いる長州藩に攻められ、
城を出て落城した。
現在、護国神社の裏手から登り口がある。
本丸まで石垣で、内枡形で中に入る。
門は津和野県庁から移築したもので遺構ではない。
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