慶長5年(1600)関ケ原の戦いの後、出雲・隠岐24万石で堀尾吉晴・忠氏が入府し、
富田城に入った。場所に難があり、
末次城があったという極楽寺山が候補となったが、
忠氏が急逝し、忠晴は6歳であったので、忠晴が再び国政をみることになり、
慶長12年(1607)に着工し、慶長16年(1611)に忠晴の死後、完成したと推測されている。
忠晴は嗣子がなく、その後、京極忠高が入るも、断絶し、
寛永15年(1638)に松平直政が信濃松本から入り、明治維新まで松平氏が続いた。(大系より)
現在は、天守閣を中心に石塁や櫓などよく残っており、
どうして国宝になっていないのか疑問の残る城の1つである。
元弘2年(1332)に湯荘留守職諏訪部扶重が謀叛を企てた際に築城されたといわれる。
その後、出雲国守護代佐々木伊予守秀貞が改修した。
その後も湯氏の居城として続いていたことが、
天文11年(1542)湯佐渡守家綱の名が記録に残り、その墓が城内にもあることで示されている。
(現地案内板より)
現在は玉作湯神社の裏手の山にある。
1の平から4の平までの4つの曲輪からなり、南側には堀切を挟んだ小さな曲輪があり、
伝家綱の墓が残る。
1の平を頂点に周囲を腰曲輪が囲むように展開されており、
やや薮化しているが、井戸跡など遺構は比較的よく残っている。
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