元亀2年(1571)信長と一向宗との金森合戦の際に出城であった。
元々、三品氏の居館であったが、真宗の寺院となり、寺内町となった。
近くの金森には金森御坊跡が残り、城ノ下という地名も残っている。
現在は蓮生寺となっており、
南面の生垣は土塁の跡で堀の跡もかすかに残っているように見える(中央画像)。
また境内西には小川が流れており、堀だった可能性もある。
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの際、柴田勝家の本陣であった。
戦いの後廃城となったと推測される。
他の柴田方の陣城、砦に比べるとはるかに防御性に優れる。
櫓台(画像中央)を持つ本丸を中心に南北に馬出曲輪を持ち、その外に曲輪がある。
またどの曲輪も土塁、その外に堀で囲まれた構造をしている。
賤ヶ岳の戦いの以前に朝倉氏の城があったというが、
構造的な側面から現在残る物は柴田時代の物で、
賤ヶ岳の戦いよりどのくらい前に改修されたのかは分らない。
一番北にある虎口曲輪で、野生の鹿2頭と出喰わしたのには驚いた。
京極氏、浅井氏の時代に東野行一が築城したという。
賤ヶ岳の戦いの際には、佐久間盛政が陣を布いた。
行市山(659.7m)、別所山(444m)、中谷山(390m)、椽谷山(368m)、
林谷山(260m)と続く、
勝家勢の最前線の最高部に当たる。
ここも薮化して遺構が見にくい状態になっているが、
別所山から登って来ると堀切2本は確認できる(画像左)。
三角点のある地点は平坦地となっている(画像右)。
ほとんど防御については考慮されていないのが特徴である。
鎌倉時代万福寺があった所であったが、焼失した。
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで、
勝家方の前田利家・利勝(長)親子が陣を布いた。
その後、前田親子は茂山に配置替えとなっている。
行市山への登山道の途中にあり、前面に薮化した堀があり、
土塁があって曲輪となっている。
標識には原長頼の守った、中谷山とあるが、
『滋賀県中世城郭分布調査報告』によれば、
仮称椽谷山(BとCの曲輪)となっている。
同書によれば、金森長近が陣を布いたのではとある。
いずれにしても厳密には分っていないらしい。
ここも薮化しており、BとCのそれぞれの曲輪の高所は確認でき、
Cの手前に堀切が残っていた(画像左)。
東野行一が築城したという。
賤ヶ岳の戦いの際に、
勝家勢が近江に進出する前に秀吉が最前線として、
天神山とこの茶臼山に砦を設けた。
が、佐久間盛政らが行市山に陣を布いたので、
最前線を、天神山とこの茶臼山から南の堂木山へと移し、捨てている。
現在は、頑丈な柵で中に入れない天神山と堀切のような道を1本隔てて、
存在する(画像左)。
5mくらいの切岸があり、東に2、3段の曲輪がある。
それ以外に遺構はないようだ。
京極氏、浅井氏の時代、東野淡路守の詰めの城であった。
天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いの際に、秀吉方の堀秀政がここに陣を布いた。
勝家の攻撃を受けたが守り切った。
現在、東野の集落の裏手にあり、麓から道が続く。
この登山道も当時の物だったようで、土を刳り貫いたような道で、
所々曲輪の跡のような場所もある。
城址はかなり薮化していて(画像右)全体を把握しにくかった。
それでも林道側の堀(画像左)と土塁は明瞭であった。
妙光寺山の山頂にある。遺構ははっきりとしないが、 南面から縦走路を来ると、突如人の手が入った痕跡に気付く (説明しにくいが、感覚的に、あっ、と気付く)。 この縦走路を東北から南西にかけて、微かに土塁のような跡がある(右画像)。 また山頂から南の帯曲輪にかけて切岸の跡がある(左画像)。 北側に縦走路を少し行ってみたが、遺構は分らなかった。
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