桜生にあり、個人宅が土塁と水堀に囲まれている。 北東にある日吉神社の前にも水堀と土塁が残っている。 よく壊さなかったと感心するくらい保存状況は良好である。
希望ヶ丘文化公園から登り口がある。 谷筋の道をしばらく登ると、城址と関係するかどうか分らぬが、 石塁が数段残っている(右端画像)。 この谷筋の道を登り切ると堀切のような場所に出て、 左へ登ると本丸方向となる。 急斜面を登って行くと、石塁がある(左端画像)。 こちらは搦め手だったのだろうか。 東西に長い本丸から今度は西へ行くと、 数段の曲輪と石塁が残っている(左2画像)。 『滋賀県中世城郭分布調査報告』の縄張り図によれば、 さらに北西にかけて遺構があったようだが、未確認。
希望ヶ丘文化公園から小堤城山への道を堀切らしき所まで行き、
反対方向の東(右)へ縦走路をしばらく行くと、堀切があり、
そこを越えて行くと、やや荒れた小高い山があり、その背面に城址はある。
この縦走路と下って行くと堀切となる(右端画像)。
この小高い山の背面は曲輪らしき平坦地が数段残っている。
最下部が館の跡?だったようで、北西と南西面に土塁が残っている。
また現在は中央部に祠が祀られてある。
永原氏の居城。六角氏とともに信長の前に滅亡し、その後、佐久間信盛が入った。
江戸期に入り、将軍上洛の際の宿となって使用されたが、貞享3年(1686)廃城となった。
現在は完全に竹薮化してしまい、方形の屋敷を囲む水堀が残っている。
標高も低く、遺構ははっきりしない。 尾根筋を歩いてみると、堀切らしい跡が数ヶ所、 土塁らしい跡があるが、説得力には欠ける。 左端画像の展望所から北東に行った所に、 やや切岸を残した曲輪のような場所があった(右端画像)。
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