佐々木六角氏の本城で、築城の時期は不明なようだが、
鎌倉末期に存在したようで、
応仁2年(1468)に完成した。織田信長の侵攻に、
六角氏は屈っしても、観音寺城にいることはできたが、
安土城の完成とともに廃城となった。
石垣を伴った山城としては古いようで、
織豊時代の石垣を用いた山城と比較すると、
山の斜面に単に屋敷を石垣を用いて作った感が否めない。
またどこかしら寺院的な感じもする。
それでも、大規模な城であったことは確かである。
元は六角氏の家臣であった山崎氏が織田氏に組みしてからの城であったという。
街道沿いの城故に信長の直属の城として山崎氏の居城でないだろうと、
「近江の城」に記載されている。
現在は北側に貯水タンクがあり、標高も100mに満たない小規模な城址である。
西側には石垣が築かれている。
信長公記に元亀元年9月『癈軍の為躰にて叡山に迯上り、はちが峰、あほ山、
つほ笠山に陣取り候。』とある。
倒木が多い中強引に登ってみたが、ほとんど何も残っていない。
元亀元年に浅井・朝倉勢がこの辺りに本陣を構えた。
将軍義昭の調停後、浅井・朝倉軍撤退後、どうなったのかは不明。
一時、明智光秀が入り、改修したという。
本丸の南側は曲輪の跡があるようだったが薮化している。
が、一部石塁が残っている。
本丸も薮化していて、北に虎口があったようだが、見逃してしまった。
元亀元年(1570)に織田信長が森可成に、
浅井・朝倉勢に対して築城させた。
信長公記に元亀元年5月に『宇佐山拵、森三左衛門をかせられ』とある。
森可成は、同年9月19日浅井・朝倉勢の前に戦死した。
城は信長の援軍もあってなんとか、落城せず、持ち堪えた。
これには、信長公記に『宇佐山の城端城まで攻上り、放火候うといへども、
武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門両人これあって、堅固に相抱へ候』とある。
以後、明智光秀が城主となり、
坂本に移ると廃城となった。
現在、宇佐神宮の裏手から道があり、しばらく行くと麓の曲輪に出る。
そのまま登ると本丸と三の丸の間に出る。
本丸には今は中継所がある。また二の丸との間に門や堀の跡がある。
ところどころ石塁が残っている。
北にある三の丸も幾つかの腰曲輪を持った構造となっている。
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