渡辺氏の居城。
『信長公記』にある「渡辺宮内少・磯貝新右衛門両人楯籠り候。」に相当するか。
但し、遺構から見ても、数百人規模ではなく、少なくとも数千人規模であり、
穴太から北白川までの白鳥越を押えた、朝倉・浅井氏が
渡辺氏の城を拡張したのだろうか。
現在、てん子山(442.5m)の西側に一部土塁で囲まれた本丸跡がある。
東側の土塁の外側には堀切(左端画像)がある。
西側に虎口(中央画像)がかすかに残る。
この本丸の間の間道?を挟んで西側に二の丸がある。
こちらには腰曲輪が数段はっきりと残っている。
本丸の近くを通る間道らしき道(右端画像)はかなり下から続いているようで、
いつの時代のものかはよく分らない。近世の物か?
→北白川-穴太を結ぶ、白鳥越からの分岐らしい。
またこの城址の南側を白鳥越(京都一周トレイル)が走っている。
応仁の乱の最中に若狭守護武田信賢が築城した。享禄4年(1531)の焼失後記録から消える。
勝軍山城と一括して北白川城とも。
白鳥越の通る瓜生山東側に城址があり、2つの山からなる。
南西側の城址は曲輪の跡が残る。北側に虎口の跡らしき箇所もある。
北東側には現在北白川城北出丸の看板があり、曲輪の跡が残る。
細川高国が永正17年(1520)に戦勝を記念して勝軍地蔵を勧請したのが名前の由来である。
高国が近江に逃れた後に被官内藤氏が六角氏の援助の下に守ったが、
享禄4年(1531)細川晴元に攻められ、東山新城とともに炎上して落城した。
その後、足利義晴が晴元と対立し、本格的に築城し、
以後、焼失、築城を繰り返し、叡山に籠る朝倉・浅井勢に対して明智光秀がここにしばらくいた。
城址は瓜生山頂上の勝軍地蔵付近のようだが、後世の人の手が入りすぎたせいか、
跡がよく残っていない。薮も多く、分りにくいこともある。北東側と南側に曲輪の跡が残る。
応仁の乱の頃に使われていたらしい。細川高国や足利義輝にも利用された。
大文字山の頂上付近。西側にも曲輪(左端画像)が数段あるが、頂上よりも東側に見るべき箇所が多くある。
その東側には土塁と堀切が綺麗に残っている(左2,3画像)他に、
北東側にも数段腰曲輪があり横堀の跡(右端)もある。"H"の字の土塁が残っているとあるが、
その"H"の真ん中の土塁付近が薮化し、中央が途切れていた。
大日山の尾根筋に残る。薮が繁茂しまくり、全体的によく分らない所も多いが、 1〜2mの深い空堀が少なくとも3本ある。曲輪はよく分らない。
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