近江4



山本山城小谷城大嶽城多喜山城瀬田城

山本山城

N35.27'01''39, E136.12'22''94
湖北町【最寄り駅】北陸本線河毛駅

平安時代末期、山本義経が築城したという。以仁王の令旨により平家に対し、挙兵したが、 平知盛に落城された。戦国時代には、浅井氏家臣阿閉淡路守が城主となり、 元亀3年(1572)に木下藤吉郎に攻められたが、守り切ったが、 翌年天正元年に降伏した。
朝日山神社から登ると、山頂近くに標高が上がった所から、曲輪の遺構が見え始める。 三の丸は北側に1mくらいの土塁が築かれている。 二の丸は遺構がよく分らない。本丸は、南側と東側と北側に門があり、土塁で囲まれている。 北に抜けると、一番馬場、二番馬場、三番馬場と曲輪が続くが、 堀切と段々の曲輪の跡が綺麗に残っている。 ここを過ぎてさらに北へ縦走路を行くと、古保利古墳群が点在するが、 片山への峠道と交差する辺まで城域だったようで、 交差する地点の手前に3段の曲輪と堀切が残っている。

本丸 堀切 馬場

賤ヶ岳


余呉町・木之本町・【最寄り駅】JR北陸本線余呉駅・木之本駅

天正11年(1583)羽柴秀吉と柴田勝家との睨み合いから、佐久間盛政が、 賤ヶ岳北部に陣を布いた中川清秀を急襲したことから端を発っし、 織田信孝を攻めに岐阜に向かっていた秀吉は、 罠に掛かった敵を見逃すことなく、1日で引き返し、退却の遅れた、佐久間盛政を追撃し、 賤ヶ岳七本槍 (福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則、平野長泰)の活躍もあり、 柴田軍は壊滅し、北ノ庄へと逃げた。大岩山に、中川清秀が討死して100年後に、 子孫である豊後竹田藩主中川久恒が墓碑を建立した。
賤ヶ岳自体はロープウェーなど観光化されていて遺構はよく分らない。 北への縦走路を行くと、猿が馬場、首洗い池などの遺構がある。

中川清秀墓

小谷城

N35.27'31''55, E136.16'34''68
湖北町【最寄り駅】JR北陸本線河毛駅

大永4年(1524)浅井亮政が築城した。 六角氏の攻撃からも朝倉氏の助けがあり、落城しなかったが、 姉川の戦いの後、織田軍に攻められ、久政・長政親子ともども自刃し、落城した。
麓から、出丸、間柄峠、金吾丸、赤尾屋敷、大広間、本丸、京極丸、小丸、山王丸と、 細長い尾根上に遺構が残っている。 大嶽城との間の谷に屋敷跡があるそうだが、今回は行っていない。 小丸に大石垣があったそうだが、これも見落とした。

大広間 本丸・京極丸間 京極丸

大嶽城

N35.27'58''46, E136.16'23''84
湖北町【最寄り駅】JR北陸本線河毛駅

現在の小谷城が築城される以前に、こちらが本城だったらしい。 天正元年(1573)に織田軍に攻められた際、朝倉軍が援軍として、 この城に拠ったが、浅井氏家臣の浅見対馬守が寝返り、大嶽城が落城し、 小谷城落城のきっかけを作った。
小谷城に比べ、薮化していて見分けにくいが、築城の方法も石塁がなく、 土塁や堀だけの城だったようだ。

大嶽城本丸 大嶽城虎口 福寿丸

多喜山城

N35.01'22''61, E136.01'30''30
栗東市【最寄り駅】JR草津線手原駅

安土城が築かれる前に織田信長により築城されたようである。 詳らかな歴史は分かっていないようである。
東海道に面し、重要な位置を占めている。 城址の東側の虎口の辺りが、藪化しているのが残念だった。

多喜山城1 多喜山城2

瀬田城

N34.58'15''11, E135.54'25''65
大津市【最寄り駅】JR東海道本線石山駅

佐々木氏家臣山岡景房が築城した。信長が本能寺で討たれた後、 安土へ向かう明智光秀に、時の城主山岡景隆は抵抗したが、結局城に火を放って、 落城した。その後、廃城となり、膳所藩の別邸となり、 禅僧天寧が「臨江庵」と名付け、庵をむすんだ。
現在は「臨湖庵」として食を振舞う店となっているようである。

瀬田城1


前へ 次へ

このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。


戻る