平安時代末期、山本義経が築城したという。以仁王の令旨により平家に対し、挙兵したが、
平知盛に落城された。戦国時代には、浅井氏家臣阿閉淡路守が城主となり、
元亀3年(1572)に木下藤吉郎に攻められたが、守り切ったが、
翌年天正元年に降伏した。
朝日山神社から登ると、山頂近くに標高が上がった所から、曲輪の遺構が見え始める。
三の丸は北側に1mくらいの土塁が築かれている。
二の丸は遺構がよく分らない。本丸は、南側と東側と北側に門があり、土塁で囲まれている。
北に抜けると、一番馬場、二番馬場、三番馬場と曲輪が続くが、
堀切と段々の曲輪の跡が綺麗に残っている。
ここを過ぎてさらに北へ縦走路を行くと、古保利古墳群が点在するが、
片山への峠道と交差する辺まで城域だったようで、
交差する地点の手前に3段の曲輪と堀切が残っている。
天正11年(1583)羽柴秀吉と柴田勝家との睨み合いから、佐久間盛政が、
賤ヶ岳北部に陣を布いた中川清秀を急襲したことから端を発っし、
織田信孝を攻めに岐阜に向かっていた秀吉は、
罠に掛かった敵を見逃すことなく、1日で引き返し、退却の遅れた、佐久間盛政を追撃し、
賤ヶ岳七本槍
(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則、平野長泰)の活躍もあり、
柴田軍は壊滅し、北ノ庄へと逃げた。大岩山に、中川清秀が討死して100年後に、
子孫である豊後竹田藩主中川久恒が墓碑を建立した。
賤ヶ岳自体はロープウェーなど観光化されていて遺構はよく分らない。
北への縦走路を行くと、猿が馬場、首洗い池などの遺構がある。
大永4年(1524)浅井亮政が築城した。
六角氏の攻撃からも朝倉氏の助けがあり、落城しなかったが、
姉川の戦いの後、織田軍に攻められ、久政・長政親子ともども自刃し、落城した。
麓から、出丸、間柄峠、金吾丸、赤尾屋敷、大広間、本丸、京極丸、小丸、山王丸と、
細長い尾根上に遺構が残っている。
大嶽城との間の谷に屋敷跡があるそうだが、今回は行っていない。
小丸に大石垣があったそうだが、これも見落とした。
現在の小谷城が築城される以前に、こちらが本城だったらしい。
天正元年(1573)に織田軍に攻められた際、朝倉軍が援軍として、
この城に拠ったが、浅井氏家臣の浅見対馬守が寝返り、大嶽城が落城し、
小谷城落城のきっかけを作った。
小谷城に比べ、薮化していて見分けにくいが、築城の方法も石塁がなく、
土塁や堀だけの城だったようだ。
安土城が築かれる前に織田信長により築城されたようである。
詳らかな歴史は分かっていないようである。
東海道に面し、重要な位置を占めている。
城址の東側の虎口の辺りが、藪化しているのが残念だった。
佐々木氏家臣山岡景房が築城した。信長が本能寺で討たれた後、
安土へ向かう明智光秀に、時の城主山岡景隆は抵抗したが、結局城に火を放って、
落城した。その後、廃城となり、膳所藩の別邸となり、
禅僧天寧が「臨江庵」と名付け、庵をむすんだ。
現在は「臨湖庵」として食を振舞う店となっているようである。
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