応仁の乱の頃、蒲生氏の居城として築城された。
貞秀の没後、当主秀紀とその叔父高郷の間で争いとなり、
結局、音羽城主であった秀紀が負け、音羽城は廃城となり、
高郷が実権を握った。
やや薮化しつつあるものの、曲輪や堀の跡など見るべき物は多く、規模も大きい。
特に抜け穴なるものまで残っている。
音羽城に蒲生氏の本城があった頃から存在したが、 天文2年(1533)に定秀が3年をかけて、本格的に築城した。 定秀の孫、氏郷の時に信長に仕え、本能寺の変の後にその家族を迎え入れた。 氏郷転封後、しばらくあって、 元和6年(1620)市橋長政が仁正寺藩(1万8千石)として陣屋を構えた。
増田長盛の居城。関ケ原の戦いの後、東軍に攻められ、落城した。
現在は、公園化されているもの、薮化している。
本丸東側斜面に石塁が残っている。
寛永11年(1634)3代将軍家光が上洛に先立って、
宿館として水口城を小堀遠州に築かせた。その後、城番が置かれた後、
天和2年(1682)に加藤明友が水口藩主となり、代々加藤氏が続いた。
現在は、出丸の位置に櫓が復元されている。堀や石垣はある程度残っているものの、
高校の運動場になっている。
元亀3年(1572)に小谷城を攻めるに当たり、この虎御前山に信長は砦を築き、陣を布いた。 北から、柴田勝家、羽柴秀吉、織田信長、堀秀政、滝川一益、丹羽長秀、蜂屋頼隆、多賀貞能 が砦を築いた。
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