天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの際に、羽柴秀長がここに築城し陣を布いた。
現在は、4つからなる曲輪がよく残っている。
中でも、土塁と虎口、さらに堀を伴った外枡形の虎口など、
城域は狭いながら見応えがある。
京極氏や浅井氏に仕えた、若宮氏の居館跡。
山内一豊の妻、千代の出身と伝えられ、観光地となっている。
現在は堀跡という水路しか残っていない。
米原氏により築城されたという。
六角方の永田氏や能登氏が在城している。
その後、場所柄、六角氏と浅井氏の境であることから、
この城を巡って攻防が繰り返された。
永禄4年(1561)浅井方の夜襲により落城させたが、
その後、信長軍の近江侵攻でその境目の城としての役目を終えた。
別城一郭と呼ばれる構造で、山の尾根の南北に分れている。
北城は、盗人の岩から少し行くと城域となり、
土塁で囲まれた曲輪がある。
ここから東へ回り込まないと本丸までには道はない。
また本丸から南の尾根にかけても、
堀切と土橋があり、さらに曲輪があり、下ると、
深い堀切がある(画像左端)。
自然地形を少し南下すると、
堀切となり(画像中央)、
北東南を土塁で囲まれた曲輪(画像右端)に登る。
さらに南に櫓台跡といわれる土台が残る。
現在、米原市により整備され、青岸寺と湯谷神社、両方に登山口がある。
尚、松茸山であるので9/15〜11/20は入山禁止である。
六角氏に従う高野瀬隆重が大永年間(1521〜1528)に築城した。
秀頼の時、浅井賢政(長政)に属いたために六角義賢に水攻めに遭った。
が、落城することなく持ち堪えた。浅井氏滅亡後、高野瀬秀隆は柴田勝家に仕えた。
蜂屋頼隆が入り、その後、天正11年(1583)長谷川秀一が入った。
秀一が朝鮮で陣没した後、廃城となった。
現地に着いたのが日没後であった。
城址としての遺構はないようだが、
水攻めの際の土塁が一部残っているように見えた。
赤田氏の居城。
白山神社、常禅寺の西側に土塁が残る。
白山神社の裏手は竹薮が放置されていて、入り込む気にはなれない。
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