平安時代末期、佐々木秀義の6男、巌秀が吉田氏を名乗った。
元亀2年(1571)宇曽川の戦いで信長軍の前に灰燼と帰した。
現在は、岡村酒蔵の辺りが城址であったようだが、遺構は分らない。
北を流れる岩倉川を防御線としたのだろうか。
六角氏の家臣目賀田氏の居城。
水堀や土塁など、埋められ削られて住宅地となっているが、
現在は秦荘町により整備され、土塁などが残っている。
京極高清が京極氏館を築き、詰めの城として上平寺城も築城した。
大永3年(1523)重臣上坂氏に対する不満から、浅見氏、浅井氏らの家臣がクーデターを起こし、館は焼失した。
元亀元年(1570)浅井長政が織田信長に備え、朝倉氏の援助の下に、上平寺城と長比城を改修した。
が、城将の堀・樋口が内応し、戦わずして落城した。(近江の山城・現地説明版より)
伊吹神社の石柱から京極氏館内に入る。
弾正屋敷、蔵屋敷、隠岐氏屋敷の跡が残り、最後に庭園の跡が残る、京極氏館となる。
庭園跡には今も石や池の跡が残っている。
ここから登山道となり、標高を稼ぐ。
しばらく行くと、竪掘りらしい跡があらわれ、城域へ入る。
平虎口から入ると三の丸と書かれた郭である。さらに奥へ土橋があり、
堀切を越えると枡形虎口が残る。ここから先が二の丸と書かれた郭である。
さらに進み東側に上ると土塁で囲まれた主郭となる。
主郭から伊吹山への道を行くと、背後に堀切が残る。
弥高寺へ寄って行くつもりであったが、標識がなくなったのか見落としたのか、
伊吹山へそのまま登ることとなり残念であった。5月初旬で蛭に遭遇しなかったのが救いだった。
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