長承元年(1132)に中条判官常光がここに館を構え、
その子有家、さらにその子家長までここを館とした。
その後、家長は建久3年(1192)祖父の常光の菩提を弔うために、
ここに常光院を建立し、今に至っている。
現在の常光院の境内および周辺の住宅地が館跡であったようで、
常光院の前には水掘が残り、境内に一部土塁らしい跡が残っている。
永禄4年(1561)長尾景虎が小田原攻めを行った際に、
粟原城主細萱民部少輔光仲は小田原城に出ており、
支城であった花崎城には、長子の半左衛門泰秀がいたが、
木戸宮内少輔に粟原城も落城され、ここも落城された。(大系より)
昭和55〜56年(1980〜81)にかけて発掘調査され、馬出や障子堀、
16世紀の出土品の他に
縄文時代や平安時代の出土品もあった(案内板より)。
が、現在は、東武伊勢崎線に分断され、さらに周辺の住宅化に遭い、
現在は城山公園として、水掘と空堀が残るだけになっている。
『関東古戦録』『秩父郡誌』では北条氏邦が天神山に移る前に居城としたという。
一方『新編武蔵国風土記稿』では、
北条氏直の家臣、渡辺監物、朝見伊賀守が在城したという。
また、秩父別当武光、武綱、重綱、重弘、重能の5代にわたって在住し、
重能は畠山に移り、その子が(畠山)重忠となった。
諸説はっきりしないが、天正18年(1590)鉢形城の開城と共に開城、廃城となった。(大系・現地案内板より)
最近整備されたらしく(2013年現在)標識や階段が新しい。
遺構は秩父線の東西に分かれ、西側から登ると、搦め手らしく、
平虎口があり(最左画像)、御殿跡と西郭の2段の縦に広い空間となっており、
南側には腰郭と横堀がある(中央画像)。
山頂の方へ登ると、やや遺構ははっきりしなくなる。
東郭へ下ると、堀切があり、土橋を渡り(最右画像)、縦に広い2の郭がある。
そこからさらに下ると腰郭と東郭であるが、藪っていてはっきりしなかった。
上杉氏家臣、永田下記の居城であった。(根古屋城案内板より)
根古屋城の位置が分からず、西善寺からそのまま谷へつっこみ保守道を登って、
尾根を登り続けた所が大机山であった。(但し山頂手前で引き返した)
大机山手前の北尾根上に小さな腰郭程度のスペースが2,3段あった(最左画像)。
また竪堀のように見える部分もあった。(最右画像)
古御嶽城は西の尾根上に下った辺りにあったことが帰宅して知った。
築城時期の詳細な歴史は分からないようであるが、
発掘調査から16世紀前半から後半にかけて使用されたと判明している。(現地説明板)
大系によれば、槻川の対岸にある遠山寺(下段画像)や城址の麓の大福寺の関係から、
天正15年(1587)に没した遠山光景が城主であったと推測されている。
北条氏の滅亡とともに落城したという。
平成20年に国指定遺跡に登録されている。
嵐山渓谷の対岸の舌端状の山の突端にあり、
主に2つの郭から構成され、大系では西側を主郭としているが、
比較的新しい現地説明版では東側を郭1(主郭)と、西側を郭2としている。
虎口には石塁を多用している点で、関東では珍しい。
郭1の北側には虎口があり(最左画像)、下り道があり枡形虎口が残る(左2画像)。
郭1は基本的に土塁に囲まれ(左3画像)、東と南(北西に向く)に平虎口がある。
東虎口を出ると、岩盤を穿った堀切があり(左4画像)、郭3に繋がる。
この郭3は石塁で囲われている。
一方、郭1の南虎口を出ると、郭2との堀切に至る。
郭2の南側と谷に郭が数段展開されている。
西には郭2から続く横堀が竪堀として南西斜面を走っている(最右画像)。
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