丸山城跡に、
天正18年(1590)伊奈忠次が関東代官頭として1万3千石で陣屋を置いた。
3代目忠治の時に、赤山に陣屋を移したが、2代目忠政の子孫が幕末まで在住した。
現在、陣屋跡は私有地となり、遺構を見るのは困難であるが、
(行政と地域住民の対立があるらしい)
丸山駅横には裏門ああり、障子堀が発掘された(今は埋め戻されている)。
また西側にある神社の裏手に空堀らしい跡が残る(中央画像)。
集落を南の端まで行った所に水堀と表門跡がある(左端画像)。
長禄年間(1457〜60)に築城されたという。
扇谷上杉氏家臣藤田八右衛門の居城であった。
永禄5年(1562)毛利丹後守が城主の時、北条氏邦が攻め、
なかなか落ちなかったが、堀に一夜で堤を築き、落城させたという。
現在、北本自然公園に一夜堤は残っているが(左画像)、城址の遺構はよく分らない。
一夜堤の東側、攻城側の方に陣城?らしい曲輪の跡があるが、後世の物か。
鎌倉時代から室町時代にかけての館跡らしいが、詳らかな歴史は分らない。
東光寺境内にある蒲桜から源範頼の居館ともされるが、
石戸左衛門尉と推測されている。
遺構らしい遺構はないが、南側には今は畑となっているが、
かつての堀らしい跡がある。
平安時代から鎌倉初期にかけて足立右馬允遠元の館、
または岩槻の太田氏に属いていた石井丹後守の居城とも伝わる。
現在、城山公園となっているが、哀しいかな、城址はほったらかしである。
堀には水もたまり(左端画像)、中に侵入しにくい。
土塁に囲まれた北を頂点とする単郭の空間は竹薮となっており、
南方向には土塁はない。
藤田康邦が秩父天神山城と花園城を養子の北条氏邦に譲った後に、
用土新左衛門と名乗り築城した。
その後、長男の重連が用土氏を嗣いだが、天正6年(1578)北条氏邦に毒殺され、
信吉が跡を嗣ぎ、天正18年(1590)鉢形城
の落城の際に同様に落城した。
城址には石碑しかない。が、丘状の上に築かれていたことは周辺を歩けば分る。
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