寿永2年(1183)源頼朝が青鳥野に陣をとったことが「源平盛衰記」にあり
その頃から本郭があったという(現地案内板)。大系のよれば、
築城者・時期について詳細は分かっていないが、
永享14年(1440)結城合戦の時に上杉憲実が唐子・野本に陣を布いたことから、
この時期には少なくとも外郭があったと推測している。
その後戦国末期には、松山城の支城として、松山城主上田案独斎朝直の家臣山田伊賀守直安が城主であった。
正方形に近い、空堀(最左画像)と土塁(左3画像)に囲まれた主郭を中心に東北西に今も土塁が良好に残っている。
また関越道の反対側には三の郭があったようで、水掘(最右画像)の跡が残っている。
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