綾部(宮山)城として捉えられていた時期もあって正確な一次資料はない。
建武年間(1334〜36)足利尊氏が築城し、明徳4年(1393)今川仲秋が入城、文明年間(1469〜87)渋川教直が居城、
弘治3年(1557)頃に、馬場鑑周が「白虎山城主少弐冬尚」を補佐、元亀年間(1570〜73)筑紫栄門が在城したと
綾部八幡宮の由緒書にあるいという。(『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
一方、『風雲肥前戦国武将史 -戦国武将伝と山城散歩-』によると、
九州探題今川了俊が築城し、弟の仲秋を入れるも、応永2年(1395)に讒言により九州探題を辞めさせられた。
その後、渋川氏が入るが、天文6年(1537)陶尾張守道麒により白虎山城と朝日山城が攻められ、渋川義長が討ち死にし、渋川氏は滅亡した。
その後、少弐氏の一族馬場氏の居城となった。
少弐山城からは九州長崎道の下を潜り、西側の尾根を強引に登ると、やや削平されたような場所に出て、
さらに奥へ登ると広い削平された空間に至る。北東側には今も深い井戸が残っている。
ここから急斜面を登ると南北に細長い、さほど広くない主郭が残り、中央部に今は浅くなっている堀切で分断されている。
北側の郭の背後の急斜面を15m下ると、戦国時代後期に改修されたのか、巨大な堀切と土橋が残っている。
また東側にも大きな畝状竪堀が4本残る。
大永元年(1521)少弐氏の一族だった筑紫満門が大内氏に接近しつつあったのを危惧し、
娘婿だった少弐氏家臣の馬場頼周が自身の居館で謀殺した。
その後、満門の鎮魂のために墓所を建立したのが当地の木太刀権現社とされており、
ここが馬場氏居館跡と推測されている。(『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
現在は、獣除けの柵に囲まれているが、住人の方のおかげで中に入ることが出来た。
南側に木太刀権現社があり、幾つか郭跡なのか、平坦地が残る。
応安6年(1373)九州探題の今川氏兼らが菊池氏の北上に対して、所隈御陣に駐屯した。
永和2年(1376)にも毛利氏らの九州探題勢が布陣しており、その後は廃城となったと推測されている。
(『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
主郭南側に明確な切岸を伴った郭が数段残る。
主郭から東峰へ少し行くと古墳跡らしい物が残る。
緩い谷を挟んで、東峰があるが削平はされているがこちらは石碑が立つだけで遺構らしい物はない。
九州探題渋川義俊が応永30年(1423)に居所しており、最終的に筑紫氏の勝尾城の支城となったようである。
(『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
円成寺という寺院が明暦元年(1655)まであったようで、城跡というよりは寺院跡という臭いが強い。
西側の高所に古墳を利用した郭があり、東側は寺院があったのか、
削平されているが、竹薮だらけで移動するのが大変だった。
太い竪掘が数本あったようだが竹薮のせいでよく確認できなかった。
応安6年(1373)九州探題の今川了俊が、田原氏を高上(こうのえ)御陣に駐留させた。
文明元年(1469)少弐頼忠が探題方の神辺城を攻略した。
神辺城が当地とは確証はないが可能性はあるという。
その後、筑紫氏家臣の嶋氏の拠点となり、麓の徳昌寺は嶋氏の位牌所と伝わっている。
(『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
徳昌寺の裏手から、谷を登り詰めると、辿りつく。
東西にそれぞれ遺構が残っており、寺に近い東側は数段の郭から構成される古い形態となっている。
一方、西側は尾根を、2重堀切で断って、主郭の南西側、北側、北東側にもそれぞれに堀切を
設けている。元々、東西にあった城を、嶋氏が西側だけ改修を入れた可能性は高く感じた。
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