歴史的な詳細は不明。
縄張り図などは、かんざき@NAVI
が詳しい。
今屋敷の集落を過ぎて、すぐに山へ入る道があり、そこに入る。
南西尾根直下まで分岐はあるものの、藪ってはおらず、すんなり行ける。
道が尽きてからは、まばらな竹林を直登すると、南西尾根に出られ、国土地理院の杭がある。
東へ進むと人工的に削られたような跡がある(左端画像)。
さらに上っていくと、主郭左の2郭に至る。主郭側に巨岩が転がっている。
主郭へは少し登ると至り、三角点がある。
ここから南東側に30〜40m下った辺りは削平された跡なのかはっきりしない平坦地があり、
南西に向けて、竪掘のような跡がある(左2)。
始めに登りついた南西尾根に戻り、2郭へ登らずに、等高線を西から回り込み、北西に進むと、
北西郭に至る。堀切なのかはっきりしない跡を越えて、尾根を登ると、
南側にこの城址のハイライトと思われる、大きな竪掘2本あるのだが、
これが人工的なのか、自然なのか、判断しにくい(左3,4)。
人工的だとしたら、もう少し堀切などあっても良さそうな気もするのだが、
ともかく尾根上に郭を展開する、さほど技巧的でない、古い城址なのだろうか。
文献史料では城の名前や城主に関する手掛りは現在のところ知られていない。
(平成28年度埋蔵文化財発掘調査の紹介【 袴野城山城跡 】より)
長崎新幹線の建設に伴う発掘調査で発掘され、一部遺構は消滅した。
亀屋バス停から、集落裏に道があり、そこから尾根を強引に登ると郭5に至る。
余り成形されていない。西に向かうと、北へ落ちる竪掘のかすかな跡があり、すぐに郭4で、主郭1との高低差がある。
主郭は北側に薄っすらと土塁があり、内部もやや傾いており、綺麗に平坦地になっていない。
南東部に平虎口がある。
西へ行くと、なんとか見所の堀切1は半分残っていた。が、その先の郭2と掘切2は消滅して、
無残にもコンクリートで補強されていた。郭3も半分消滅し、余り遺構らしさも残っていない。
詳細は不明。
留岡八幡宮の社殿がある場所が主郭で、北に道路を挟んで二ノ丸となる。
社殿裏(西側)に堀切の跡らしい浅い溝がある。主郭は土塁に囲まれてはいるが、神社増設に伴うものかもしれない。
西側に大堀切の跡らしい物が残る。
また東側も果樹園となってはいるが、大堀切の跡らしい物が残っている。
南北朝の頃、南朝方の有馬氏が築城し、九州探題今川了俊の侵攻を防いだ。
戦国時代にも有馬氏の城であったが、永禄5年(1562)有馬修理太夫(晴純・仙岩)が小城郡丹坂の戦いで龍造寺隆信に敗れ、
以後、勢力を弱めた。
天正2年(1574)春、隆信が藤津に侵攻し、松岡城の有馬義純は高来に逃げたのに伴い竹崎城も落城したとみられる。
(肥前戦国武将史より)
本丸の北東部の石塁や空堀が残っているが、住宅地化して他に残ってないようである。
秀吉の正室おねの兄木下家定の三男、延俊が名護屋参陣の際に築いた。
(現地資料より)
名護屋城博物館の館内に一旦入って、外に出る入口がある。
石塁や玉石敷き、庭園、雪隠など発掘され遊歩道に沿って見られるようになっている。
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