肥前(佐賀)17



金敷城山城熊の川城木山城杵島城小島城

金敷城山城

佐賀市(旧大和町)

弘治3年(1557)9月、山内の神代勝利を警戒して、春日山城主の小川氏が難所を設けた。 が突破され、春日山城は落城した。翌月、龍造寺隆信は復讐に乗り出すが、金敷峠での戦いで、 却って、小川信安が討ち取られ、惨敗となった。(『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
現在、金敷城山の山頂には、天明3年(1783)建立の、小川信安供養石祠、水町、江副、中元寺氏らの供養塔などがある。 南東方向へ下り道があり、竪堀が残っているが、その先の堀切は、まとわりつくアブに集中できず、見つけられなかった。



熊の川城

佐賀市(旧富士町)

神代勝利が弘治3年(1557)の金敷峠の戦いの後に築城した。 永禄4年(1561)河上合戦での敗走時に勝利・長良親子がここに入った。 その後、龍造寺氏との和睦があり、さらに破綻した時に、改修と受けたと推測されている。 (『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
上熊の川のバス停から送電線の保線路を辿る方法もあったが、南側の林道の終点からアプローチした。 尾根へ上がりしばらく行くと、平坦地があり、郭C直下辺りで、堀切らしい跡がある。 そこから西側に回りこんで、南側への尾根道の西側に大きな竪掘が残る。 堀切らしい跡からは道らしい道がなく、強引に上ると郭Cで、木々が繁茂している。 北西側に傾斜があって、郭Bには入れる。この郭も木々が繁茂している。 土塁らしい高まりを超えると、主郭でここも例に漏れず繁茂している。 その東側の、郭E・Fも含めた南側に畝状竪堀群が縄張り図にあるが、かなり埋もれているか、 見分けにくかった。



木山城

佐賀市(旧富士町)

永禄5年(1562)神代氏と龍造寺氏の和議により、勝利は畑瀬館に隠居した際に築城し、 松瀬・名尾・梅野の3氏に守らせた。その後、同8年勝利の死後に龍造寺氏と破綻した後に改修を受けた可能性もある。 (『佐賀県の中近世城館 第4集』より)
須田越の北側に位置し、道ははっきりしないが尾根を辿っていくと大竪堀に至る。 竪堀の西側は平面的な郭が狭く、放射状に竪掘が設けられ、北西に行く尾根を下ると、 削平地があり2本堀切がある。 大竪堀から土橋を渡って東へ登ると主郭で、特に西側を石塁で整形している。 南側の腰郭との間の石塁の残存状況が良い。 北側と東側に腰郭は展開されているが巨石もあったりと余り整形されていない。 どちらが大手口なのかははっきりせず、西側に対しての防備が高く感じた。須田越からの尾根道が大手道か。



杵島城

白石町【最寄り駅】JR長崎本線肥前白石駅

須古城の支城と伝わるが文献には見当たらない。(『佐賀県の中近世城館 第3集』より)
百町牟田の中にある島状の小山で、龍造寺信周を祭神とする杵島神社の境内となっていて、 遺構らしい物は残っていない。



小島城

白石町【最寄り駅】JR長崎本線肥前白石駅

天正2年(1574)平井経治の弟、直秀が城主で、龍造寺隆信に内通し、経治を須古城から追った。 が同年10月に経治の逆襲に遭い須古城も奪還され、経治は討たれて、焼け落ちた。 翌月末に龍造寺隆信が再び攻め寄せ、平井氏一族と元梶峰城城主の多久宗利がここで迎え撃ったが、 龍造寺信周と在地の前田氏と井元氏により宗利は討ち取られ、落城した。 この戦いの後、龍造寺隆信が須古城を本拠とすると、成松信勝が城代となった。 近世初頭期に須古城の改修に伴い、石採りにあい、開削されたと推測されている。 (『佐賀県の中近世城館 第3集』より)
須古城のすぐ東側500mに位置し、小山となって残っているが、 石採りにあって掘削されており、現在の状態では出城として防備に優れているようには見えなくなっている。 南側が館として伝承されている。





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