少なくとも14世紀前半には築城された。
城主の三宅氏は、管領細川氏の勢力争いに巻き込まれ、
天文18年(1549)三宅出羽守國村が城主の時、
細川晴元に命を受けた香西元成に攻められ落城し、自刃して滅亡した。
城域は茨木市と摂津市に跨る広い地域であったようだが、
現在は住宅地となり、蔵垣内公園に碑があるだけである。
平家物語巻第12判官都落によれば、
鎌倉の遣わした土佐坊正俊を斬り捨てたこともあり、
鎌倉方の軍勢の来る前に西国へ落ちのびることとなり、
文治元年(1185)11月3日に義経一行は500余騎で京都を離れた。
その際、西国街道を下る際に、
摂津国大田保の住人、多田源氏太田太郎頼基がわずか69余騎で
『「わが門の前をとほしながら、矢一射かけであるべきか」とて、
川原津といふ所に追ッついて攻めたゝかふ。』
と仕掛けたが、頼基も手負い、家臣も戦死するなどして引き上げたことが見える。
その後、大永7年(1527)、細川高国と晴元との戦闘で、
晴元方の柳本弾正に茨木城、安威城とともに開城された。
その後、天正6年(1578)
信長が家臣荒木村重の謀叛に遭い、村重の寄力である高山右近重友が籠る高槻城、
石田伊予・渡辺勘大夫・中川清秀(瀬兵衛)が籠る茨木城を攻めるべく包囲網を狭めて行く段階で、
11月10日に芥川・糠塚・大田村・猟師川辺に陣取り、大田の郷北の山に砦を築かせるように指示した。
その後、高山右近は神父の説得で開城し、13日には普請され、
18日には郡山に陣を進めた信長自身、総(惣)持寺へ行き、砦を築かせ、大田郷の砦は引き払わせている。
尚、24日には中川瀬兵衛が他の2人を追い出し、茨木城を開城している。
但し、この大田村の砦とは違うのではと、日本城郭大系では触れている。
現在は、住宅地や東芝の工場となり、遺構は残っていない。
が、太田1丁目付近は入り組んだ構造で当時の跡を残しているのかもしれない。
畠山義豊が野崎城城主畠山尚順を攻めたことが残る。
現在、野崎観音の裏手にある小高い山が城址である。
本丸の東側は堀切で飯盛山からの尾根を断ち切ってある。
また竪堀もかすかに残る。西には曲輪が何段か続くようであるが、
後世の改変を受けているようでもある。
高師直が楠木正行と四条畷で戦った際、
高勢の一部が飯盛山に陣を布いている。
南北朝時代にも陣城として利用され、その後、
河内守護畠山氏家臣木沢長政が本格的な城として築城した。
長政は主君畠山義宜を裏切り、細川晴元に属いた。
が、義宜を破った長政の力が増大し、晴元と対立し、結局、
晴元と三好長慶に敗れ討死した。
その後、畠山氏家臣の安見直正が城主となったが、
最終的に三好長慶が城主となった。
長慶の本城となったが、その死後、信長の侵攻で、義継は高屋城へ移り、
畠山氏家臣遊佐信教が城主となったが、
天正4年(1576)信長勢に攻められ落城したという。
信長公記によれば、4、5月と河内方面での戦を行っていることは書かれてあるが、
落城については触れていない。
現在はハイキングコースの一部と化して、やや荘厳さに欠ける嫌いがある。
本丸には楠木正行の銅像が立ち、千畳敷にはテレビアンテナがある。
それでも各曲輪の構造は残っており、
本丸と北の曲輪の間に石塁が残っている(画像中央)。
その先には堀切らしい地点もある(右端画像)。
本丸直下東側には石塁が残り、妙法寺に行く道の途中に、
竪堀が残っている。
田原氏の居城で、飯盛城の三好方に属し、三好氏の没落と道を同じくした。
天正年間に廃城になったという。
現在、月泉寺の西方の小高い山が城址で、住吉神社の祠が立っている。
曲輪間を断つ、堀切が2条綺麗に残っており、本丸から北西へ下った所にある、
井戸曲輪は今でも水が出るらしく、土塁も2条残っている。
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