和泉・河内・摂津(大阪)3



下赤坂城上赤坂城千早城水尾城沢良宜城

下赤坂城

N34.27'35''69, E135.37'08''84
千早赤坂村

元徳3年(元弘元年(1331))楠木正成が後醍醐天皇を迎えるつもりで築城した。 結局、天皇は捕えられたので、護良親王が入ったが、急造の城なために防備が薄く、 楠木正成らは火を放って、金剛山中に逃げた。 翌正慶元年に幕府軍から奪回し、再起したが、当城は再び陥落した。 楠木正成死後も正儀が使用した。
現在、遺構は残っていない。役場の上辺りにあったという。

城碑

上赤坂(楠木本・小根田・桐山)城

N34.26'53''51, E135.37'51''87
千早赤坂村

楠木正成が再挙に際し、千早城とともに整備し、 平野将監、楠木正季を入れた。 が、元弘3年(1333)幕府軍に水路を断たれ、陥落した。
その後、戦国時代に改変されたようだが、遺構はよく残っている。 麓からの道の途中に4つの木戸がある。深い堀切がある、 そろばん橋を越えると、東に二の丸があり、西に茶碗原を経て、本丸が残る。 二の丸南側には腰曲輪が残るが、これは後世の物か。 本丸は千畳敷といわれて広い削平地となっている。

一の木戸 二の丸南端 本丸

千早城

N34.24'56''34, E135.39'13''14
千早赤坂村

正慶元年(1332)に楠木正成が再起すべく築城した。 大勢の幕府軍に囲まれても必死に守り抜き、 そのうち各地の反乱も起き、幕府は滅亡した。 その後、正勝が城主の時、明徳3年(1392)畠山基国に落城された。
現在、千早神社裏手の禁足地となっている最高点が本丸のようである。 神社がある所が三の丸で、茶店がある所が四の丸である。

城碑 四の丸 本丸

水尾城

N34.48'17''44, E135.34'32''29
茨木市【最寄り駅】阪急京都線南茨木駅

美濃斎藤氏家臣であった平尾孫左ヱ門が築城した。 その後、平尾氏は、 信長が義昭を将軍に据えた際に焼き討ちの咎で帰農したという。
現在、伯光神社の脇に碑があるだけである。

碑

沢良宜城

N34.47'54''12, E135.34'07''12
茨木市【最寄り駅】阪急京都線南茨木駅

城主藤井三位は将軍義持に「御馬廻り免状」から与えられ、 堺で勢力を上げていた大内義弘を攻める義満に従って出陣した。
現在、城址はマンションなどになり、 佐和良義神社への道はかつての馬場であったという。

碑 佐和良義神社


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