元々石山本願寺の所領として本願寺顕如がこの地で信長に抵抗したことで有名。
信長は安土からこの地に本拠地を移すつもりであったと云う。
信長が本能寺の変で倒れた後、秀吉がここに大坂城を築いた。
秀吉の死後、大坂冬の陣、夏の陣で天守閣を含めて破壊されたので、江戸幕府は新に天守閣を築き直した。松平忠明が城主になった後に江戸幕府の直轄の城代が置かれることになった。が、天守閣も50年後には落雷から消失したままに明治維新を迎えた。
そして昭和6年に再建された。さらに近年修理が行われたばかりである。
詳らかな歴史は、未調査。他サイトを参照して下さい。
JTの研究所から少し西へ行った所に、ひっそりと碑だけ立ってある。
せめて、看板くらい立てて欲しい。
細川高国家臣の能勢氏によって築城されたという。
細川晴元の後、三好長慶の飯盛城へ移るまでの本城となった。
長慶の子、義興没後に織田信長軍により駆逐され、和田惟政が入るも、
高槻城へ移り、廃城となった。
現在は三好山となり、遺構は若干荒れ気味だが、比較的よく残っている。
西側が摂津峡で守りに堅い城であったようだ。
明徳年間に説厳が普門寺を創建した。
永禄4年(1561)に管領細川晴元が三好長慶によって幽閉され、翌年死去した。
永禄11年に三好3人衆に擁された足利義栄がここで14代将軍の宣下式を行った。
が、同年ここで没っした。
普門寺の西と北に今でも土塁が残っている。
三好長慶が出城を築いたことから、今城と名付けられたという。 古墳自体かなり改変を受けて、曲輪の跡が幾つか残っている。。
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