延応2年・仁治元年(1240)地頭秋庭三郎重信が大松山に築城した。
以後、高橋氏に移り、天正年間まで城主が多く代わった。
元亀2年(1571)に三村元親が城主となった。
かつては毛利氏に属したが、
仇敵宇喜多氏が毛利氏に属いたこともあり、毛利氏から離れた。
その結果、天正3年(1575)毛利氏に攻められ、陥落寸前に元親は脱出したが、
松連寺で自刃した。
関ケ原後に、小堀新助正次が備中総代官として城主となり、4年目に病死した後、
小堀遠州として有名な、遠江守政一が入った。その後、元和3年(1617)池田氏が大名として入り、
寛永19年(1642)水谷氏が入り、2代目勝宗が現在の規模に改修した。
その後、安藤、石川と続き、板倉氏が明治維新を迎えた。
現在、北から大松山、天神丸、小松山、前山と続く山塊に城址は存在し、
天守閣等が存在する江戸期の物は小松山や前山にある。
江戸期の遺構も見物ではあるが、今は目立たない、
それより北にある天神丸、大松山も必見である。
小松山から北へ下ると堀切があり、ここから上りになり相畑と呼ばれる屋敷跡がある。
ここから先天神丸にかけて江戸期以前の石塁や曲輪などの遺構がよく残っている。
天神丸の手前の堀切を通り、北へ進むと、東側に溜め池がある(画像右端)。
これはいつの時代の物だろうか?江戸期か。
この溜め池の反対側(西側)が大松山城跡だそうだが、夏場は薮化していて、
登ってみたが、
3つの曲輪から構成されていることはなんとなく把握はできたが、
『岡山の山城を歩く』にあるように松山城の石碑を見付けることはできなかった。
安国頼久禅寺
足利尊氏が全国に建立させた安国寺の1つ。
寺号となった中興の開基松山城主上野頼久、三村家親から3代の墓があり、
小堀遠州の庭がある。
余りにも作りが近世城郭めいていたので撮影だけはしていたが、
『岡山の山城を歩く』によれば、やはりその役目はあったようである。
その近くの松連寺もそのタイプだそうだが、見落としてしまった。
古代朝鮮式山城。詳らかな歴史は不明。
日本書紀にも記載はない。
標高約400mの鬼城山の8〜9合目にかけて城壁が築かれていたらしく、
ところどころ残っている。
東西南北の門さらに水門、内部には礎石も残っている。
また近年、整備され、西門は復元されている(右端画像)。
天文年間(1532〜55)に大内義隆により築城されたという。
その後、毛利氏の時代には、小早川隆景が修理し、
二階堂近江守氏行・中島大炊介元行が城代であった。
赤松勢、または尼子勢に攻められたが、落城せずに持ちこたえた。
主郭周辺は草木が繁茂し、でこぼこしており、
縄張りがはっきりしなかった。西側に石塁が残っており(右画像)、
空堀のような跡がある。
世瀬川左衛門入道祐隣により建武年間(1334〜38)に築城されたという。
その後、禰屋と改姓した子孫が城主として続いた。
明治時代に陸軍の大演習があったらしく、
改変されてしまって、今は南北の曲輪それぞれに神社の社殿がある。
北側の曲輪の北と西に石塁が残っている(右端画像)。
慶長8年(1603)、蒔田広定が1万石の大名として築城。
2代目定正の時に分割し旗本になった。
幕末、文久3年(1862)12代、広孝の時に1万石となり大名となり、
陣屋を築いた。
慶応2年(1866)蛤御門の報復のために長州勢の脱走兵、
立石孫一郎らの約150名により襲撃され破壊された。
現在稲荷神社があり、その裏手に本丸らしき高所がある。
その裏手に土塁で囲まれた平坦地があり(左画像)、
その裏に堀切らしき通路が残っている(右画像)。
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