延慶年間(1308〜1311)前後に庄左衛門四郎資房により築城されたという。
その後、室町初期に石川氏が城主となった。
永禄10年(1567)、三村方で明禅寺合戦に参加したが、敗戦となった。
その後、尼子と毛利の覇権争いに巻き込まれ、城主久式が九州在陣中に、
尼子勢に攻められ、城代禰屋七郎兵衛は城を開け渡したが、
久式は毛利氏の援助で奪回した。
が、三村氏と毛利氏が断交すると元親が義兄であったために三村方に属き、
元親は松山城を落とされ自刃し、
久式も自刃した。その後、清水宗治が城主となった。
西の丸、東の丸の2つの曲輪からなる。福山城からの道から分岐し、
登り切ると、東の丸に出る。土塁が残っているが、
夏場のせいか薮化していて堀と土橋があるようだが、明確には分りかねた。
西の丸が主郭だったようで突端に位置し、見晴らしも良い。
こちらも薮化で縄張りがよく分らなかった。
真壁小六是久により鎌倉末期に築城されたという。
その後、足利氏と新田氏の争いに巻き込まれ、
尊氏が筑前まで退却した際には、
義貞軍の先鋒、大井田氏経がここに陣を布いた。
勢いを盛り返した尊氏勢の侵攻が及び、
劣勢ながらここでよく戦った。その後、城から落ちのびた。
現在、山頂はかなり広い平坦地で、南北に石塁が残っており、
空堀や井戸の跡が残る。
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