応永6年(1399)宇都宮(佐田)親景が城井谷菅迫から移った。(大系・現地説明板より)
登山口から登って行くとD郭ぽい所を通過し、堀切と石塁が出て、堀切2本あって、土橋のある平虎口へ出る。
主郭はB郭方向とC郭方向に「く」の字になっており、横掘で囲繞されている。
北東のB郭方向には堀切があり、その後も切岸が続く。
北西方向には石塁を伴った長い竪掘が残る。
B、C、E、FG郭とかなり距離があり、下手すると分断される可能性も否めない。
佐田氏だけのものでなく、宇佐衆がそれそれ独立して籠ったのだろうか。
主郭からそのまま下って行くと南東の方へズレるので、要注意。北側が伐採で開けているのでそれが目印になる。 一旦、竹薮の鞍部に出て、登り返した所が土橋になる。 郭内は余り平坦でない。南側に横掘が残っているが竹薮化している。 東側に虎口があり、そのまま下って行けそうだ。 一方北側の尾根へは何の防御的なものもなく自然地形のままである。
主郭を一旦戻り、北側へ横掘を越えてそのまま行くと、数段郭があり、そちらではなかった。 横掘が竪掘となって落ちている方から尾根を西へ少し下って行くと、鋭い堀切があり道が合っていると安心できる。 郭自体はそんなに広いわけではないが、南側は横掘が綺麗に残り、突端部には見せ付けるかのように石塁が残っている。
郭としてはっきりしない。EFG郭に続く尾根に横掘が残る。
D郭から尾根に入ると赤テープが時折ある。FG郭との分岐をそのまま西へ明るい尾根を進むと堀切がある。 南側には石塁が残っている。南側には横掘が2段残る。 突端の方へ進むと堀切が残る。
E郭から戻り、分岐からやや薄暗い尾根を下ると、堀切に至る。 北側には横掘か腰郭らしい跡が残る。 G郭方向へ行くと高低差の大きい堀切が残っている。
浅い堀切があり、郭となるが、やや自然地形に近い。数段切岸のようなものが残っている。 南側に横掘が残っていたようだが、見逃してしまった。
宇佐大宮司公泰が神楽岳城を築城したといわれる。その後、安心院氏を称する。
その後、建武3年(1336)豊前守護代宇都宮冬綱が借用して、子の親綱に守らせ龍王城と改称した。
天文年間(1532〜55)大内義隆が城井三郎兵衛尉をここに置いた。
弘治2年(1556)大友義鎮が1万2千の大軍で攻め寄せ、城井統房と宇佐郡の地頭たちは降伏し、
以後大友氏の拠点となった。安心院公正は麟生と称した。
天正6年(1578)耳川の戦いで大友氏が大敗すると離反するものが続出し、
天正10年(1582)麟生も反旗を翻し、妙見嶽城の田原氏に囲まれた。
翌年、佐田弾正忠が本領安堵を条件に開城させた。(大系より)
ちょうど山頂の電波塔の工事中で登山口のある海神社脇から臨時のモノレールが仮設されており非常に登りにくかった。
登山道を山頂へ西へ直角に曲る所の反対側に郭らしい平坦地がある。
山頂は電波塔が立つ中、石壇のような物に神楽城の石碑がある。
北側斜面に3段から成る石塁が残る。黒田時代の物だろうか。
一方、西へ1段下がった郭の北側にも石塁の跡らしい石が転がっていた。
さらに西側に数段降りてみたが、遺構らしい物はなかった。
麓に龍王陣屋があったはずだが、見つけ損ねてしまった。
鎌倉時代より続き、大友氏の水軍を担った伊美氏の居城。(大系より)
現在は小学校となっており、遺構は全く残っていない。
櫛来氏の代々の居城。
現在、城山社が立っている城山で、現在こそ海岸線から奥へ入り込んでいるが、当時は現在に田んぼ辺りまで海だったか。
神社のある山頂から東側に切岸らしい跡がある。石塁なども残るが、墓も存在するのでこれは当時の物かはよく分からない。
鎌倉時代に岐部成久が築城。弘安の役に出陣した。
岐部山城入道の時に石垣原の戦いで大友氏が敗れるのに伴い滅亡した。
主郭の南側に堀切が2本残る。主郭は幾つか段となっているが、余り成形もされていない。
西側に石垣など残っているが、江戸期以降の物であろう。
ペトロカスイ岐部の銅像が麓に立つ。また麓に旧有永邸を使った国見ふるさと展示館がある。
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