武蔵町の吉広から移った、吉弘氏が館を築いた。
正確な場所は分かっておらず、大岩が残る地が伝承地として整備されている。
最後の当主吉弘統幸や高橋紹運、立花宗茂がここで生誕したと考えられている。
(大系・現地説明板より)
西側に金宗寺跡という、石垣原で討ち死にした統幸の墓とその父の国東塔が残る、吉弘氏の菩提寺が残る。
城跡は、長安寺、また戴星学園の西側という説もある。
7代親信の時に武蔵吉広から移り築城した。吉弘氏は麓にある長安寺の六郷山別当職や執行職を占有し強い影響力を有していた。
(大系・豊後高田の城跡より)
長安寺から登山道があり、見晴らしの良い場所に標識がありそこから険しい道を少し登ると、
長い竪掘の間を登る道に出る。この竪掘の北側にも3本、これよりは短いが竪掘が残る。
また登り切った郭の南側には花弁型竪掘と書かれている、畝状竪掘群が短いが残っている。
ここから屋山の細長い尾根上に郭が続く。
主郭手前には堀切が1条あり、主郭に石碑が立っている。
また主郭の北側には堀切が1条残るだけで、防備は固くはなさそうである。
六郷山寺院の智恩寺の西側に位置し、権別当であった大友氏一族の小田原良範が院主で、その後も小田原氏や大友一族が院主であった。
文禄の役にも大友軍に従軍している。その後の大友氏の衰退と伴にし、天正14年(1586)島津軍の侵攻の際に智恩寺は兵火にかかった。
(現地説明板より)
現在農園の北側の竹林の中にあり、櫓台が残っているとのことで行ってみたが、
実際見た物が該当の櫓台だったのか、はっきりしない。当時の物かは分からないが石塁の跡らしい物も残っていた。
田原氏が築城か。
天文3年(1534)田原親宏が鞍懸城から出陣し、大友本軍と合流し大内軍を撃退した。
天正8年(1580)親宏の養子であった親貫が反旗を翻し、田原氏の家督を宗麟の次男の親家に継がせ攻めさせ、
2月に立てこもり10月に落城した。(大系・豊後高田の城跡より)
西側の住宅地から伸びる舗装路の途中からピンクのテープに従えば迷うことなく辿り着く。
土橋と堀切があり、東側に後に改修されたと見られる枡形へと誘導する石積みが残る。
北側と西側は石塁が良く残っている。一部城割の影響か崩れている部分がある。
南側の石塁は平べったい在地系で、北側の石塁は織豊系の野面積みとなっており、
戦国末期まで改修されたのか。
主郭は、西側に虎口があり、北側と西側を石塁で囲っている。
南北朝の頃、応安2年(1369)籠る宮方の軍を田原直貞が攻め、5年後には、南にある華ヶ岳を孫の田原氏能が攻めて落とした。
それ以後は、佐野の方に移したか。(大系より)
霧笠山からの道が大手道と思われるが、奥畑集落から赤テープに従って山頂に至る。
岩稜の山頂の北側に堀切があり、ここから城域である。
主郭は削平されており現在倒木が残っている。
北東側に数段腰郭がある。主郭から北西側に郭があるが、直には下れず、
一旦北東の郭に下って回り込んで行ける。
北西の郭は細長い削平された郭で。先端は大きな堀切で切っている。
堀切の先にも薄くはなっているが2本堀切らいい跡が残る。
こちらが大手道だろう。
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