詳細な歴史は不明。ただ、同じ尾根上にある、栂牟礼城との関係は無視できないであろう。
ネット上に落ちていた
この資料に詳細に記載されている。
現在は、史跡公園となってはいるものの、やや荒れた感は否めない。
駐車場から鉄塔のある主郭へ登ると、堀切があり橋が架かっている。堀切はそのまま南北に竪掘として落ちている。
少し登ると細長い主郭で、現地説明版によれば、完全に削平された物でなく未完成のままの臨時的な城と推測されている。
北側が削り残してあり、佐伯藩の書物奉行の明石秋室の詩を記した石碑が建っている。
主郭の南側に下ってみると、畝状竪掘が余り埋まらないままによく残っている。
傾斜もあって実に平行移動がしにくいことを実感できる。
北側の斜面にも薄っすらと畝状竪掘は残っている。
天慶3年(940)藤原純友が反乱の時に極楽寺城を築城したというが定かでない。
建久6年(1195)宇都宮信房が大薗氏に守らせた。建武3年(1336)宇都宮久綱は子の親綱に守らせた。
その後、大内氏が豊前統治のために松山城に守護代を置き、当城に代将を置いた。
天文元年(1532)宇佐・下毛の諸将は守護代の杉氏と篭城し、大友氏を退けた。
同7年に将軍義晴の仲介で和議が成立、宇佐郡衆は大友氏に服するようになった。
大内義長が毛利氏により滅ぼされると、豊前では毛利氏に属する諸将が増え、
弘治2年(1556)田原紹忍を城主に置いた。天正11年(1583)田原親盛(宗麟の第3子)が城代となる。
香下神社からピンクのテープを谷を突き詰め、東側から回りこんで、東峰との鞍部に至る。
東峰には遺構はほとんどない。
西峰へ登って行くと、木々や矢竹で見難いが竪掘らしい跡が見え出す。
登りきった所が、城域の南端で、西側に畝状竪掘群が残っている。
北西へ向かうと浅い堀切を挟んで主郭となる。
主郭には、芝矢倉跡という櫓台の台場が残っている。
主郭から北へ数段郭が展開される。
主郭の西側には石塁があり、さらにその下に堀切が残る。
手洗石という用途不明な巨石があり、その郭の北西側に続く尾根には堀切が4本ほど残っている。
その堀切から南側に回り込むと、畝状竪掘群が残り、畝を石垣で積んでいる部分もある。
射場越へ下ると、香下ダムの登山口へ至る。
天文年間(1532〜54)
木付氏の分流の木付弾正忠茂晴が櫛野村の地頭となり、櫛野氏と称し築城した。
大友氏に属し、鎮助の時に子に恵まれず、大友義鎮(宗麟)の第3子主計頭義茂を養子にした。
時枝・賀来・福島ら宇佐郡衆が反旗を翻したときも、妙見嶽城主田原親賢(紹忍)に属し、
軍功をあげた。島津討伐の際には、義茂(晴?)は三好秀次軍に属した。
天正17年(1589)中津城主となった黒田氏に城地を没収されたが、子孫は当地で続いた。(大系・現地説明板より)
今では櫛野橋の脇に石碑と説明板が残るのみである。
当時は東西100m南北200mの堀を廻らした平城だった。
天文の初めに、但馬国出石城主が流浪し、副氏を称した。
弘治2年(1556)に大友義鎮に謁した。(大系より)
道の駅いんないのすぐ裏手、南側に位置する。
非常にコンパクトに見所が満載のダイナミックな城跡である。
南側は横掘が2本あり、東側は水が溜まっていた。
東側の尾根には櫓跡もある。2段登ると土塁に囲まれた主郭で、副但馬守の石碑が立ち、西側に櫓台が残る。
背後に当たる南側は横掘が2本あり、畝状竪掘群が残る。また南の尾根続きはしっかり堀切で断っている。
豊前城井谷城主宇都宮信房の曾孫通房が正応3年(1290)佐田荘の地頭となり、
応永6年(1399)第8代掃部助親景の時に下向した。
11代弾正忠俊景は大内氏の宇佐郡代となり、明応7年(1498)大友親治が攻めて来たが、
子の泰景が赤井城で防ぎ退けた。翌年も大友軍が来襲し、佐田・飯田、院内衆も妙見嶽城に籠ったが、
降伏するに至った。その後、再び大内氏が妙見嶽城を奪還するなどした。
弘治2年(1556)大友義鎮が大軍を率いて、竜王城に入ると、
宇佐郡衆はそれに従った。その後は、大友氏に属したが、
文禄2年(1593)16代統綱の時に大友氏が滅亡し、佐田に戻り、
元和元年(1615)細川時代に家臣となり細川氏の転封に伴って熊本に移った。(大系と佐田城現地説明板より)
県道716号線方面に曲がった所に階段があり登ると、石塁を伴った切岸のような段が無数にある。
遺構かどうかは不明。そこをさらに登っていくと、竹薮となり浅い横堀のような物があり、
そこを越えて登り切ると、いきなり平坦地になる。方向感覚を失うようなフラットな地形で、北西に進むと、
空堀と土橋のような跡がある。後世の開墾の跡かもしれない。
さらに次の郭の突端には石塁が並んでいる。遺構と見れば遺構ぽいが後世の物とも否定できない。
この周辺には切岸を伴った平坦地がいくつもあり、全く理解できない。
干上がった池の脇を通って、山の方へ進むと、尾根沿いに切岸が数段あり、その先は切岸もなくなってしまう。
ここで大友軍から守りきれるようにも見えず、屋敷はこちらで、佐田(青山)城に篭城したのだろうか。
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