国指定遺跡。
南北朝の頃に築館されたと判明している。一辺200m四方の方形館であった。
平成10年からの発掘調査で南東部分に東西83.6mの池を持つ庭園跡が発掘された。
(現地説明板より)
現在ブルーシートで覆われ、まさに発掘調査中であった。
庭園の跡などは一部見ることができる。
島津の豊後侵入に対し、秀吉は本隊が到着するまでのつなぎとして、
四国の仙石秀久、長曾我部元親・信親親子、十河存保を送り込み、
大友氏家臣戸次統常が誘導して、鶴賀城救援に向かった。
鶴賀城と戸次川に対する鏡城に布陣して、作戦会議が行われた。
仙石秀久が慎重論を退け、渡河したが、島津氏の反攻に遭い、
四国勢は壊滅した。(大系より)
現在は遺構らしい物はなく、石碑が建ち、展望台のようになっている。
大友能直が豊後入国後、三子(孫?)親家に与え、利光氏を名乗ったという。
天正14年(1586)島津氏は豊後に侵入し、鶴賀城に降伏を勧め、
城主利光越前守鑑教(宗魚)が出征中で不在で、一時的に講和した。
急遽戻った鑑教は夜討ちをしかけ成功させた。
その後、三ノ丸・二ノ丸まで落とされるも持ちこたえ、島津軍を退けた。
しかし12月7日鑑教が櫓に上がっていた所を一矢を受け絶命したという。
その後も包囲する島津軍に対し持ちこたえたが、
戸次川の戦いで四国勢が敗北を喫すると、宗麟は忠勤を賞して開城させ、
城兵を臼杵に収容した。(大系・現地説明板より)
標高193mの山頂を中心に、尾根上に郭の遺構がよく残る。
特に画像を撮り損ねたが、畝上竪堀の数が多いことが特徴的である。
主郭の南側の尾根続きには堀切が3条連続している。
大永年間(1521〜28)佐伯氏10代の惟治が築城したという。
鎌倉時代より佐伯氏の治める所であったが、
大永7年(1527)大友義鑑に謀反の疑いをかけられ、臼杵長景率いる2万の軍勢で囲まれた。
栂牟礼合戦と呼ばれる戦いで、死力を尽くし、守り切ったが、
多勢に無勢で長景の大友氏に取り成すとの起請文に開城し、
日向高千尾山で長景に通じていた新名党の土民兵に襲われ、討ち死にし、子の千代鶴も堅田郷西野で切腹した。
その後、惟治の甥の惟常に11代を継がせた。12田代惟教と13代惟真は天正6年(1578)耳川の戦いで、
大友氏の大敗の際に討ち死にし、惟定が14代となった。
天正14年(1586)島津氏の豊後侵攻の前に立ちはだかり、
退け、秀吉から感状を与えられた。
文禄2年(1593)大友義統の豊後没収に伴い、佐伯を離れ、藤堂氏に客分として仕えることになった。
その後、毛利高政が入り、佐伯城を築城し、廃城となった。(現地説明板・大系より)
古市の方には案内板もあり、左谷コースと城山谷コースの2本山頂まで行ける道がある。
左谷コースをしばらく登ると、尾根に出て、いきなり堀切とそこから落ちる竪堀がある。
七九谷砦(左3画像)まで堀切が4本くらいある(左1,2画像)。
七九谷砦から二の丸までは傾斜が緩やかになる。
二の丸は細長い主郭に比べ割と広い。周囲に土塁もなく、林の中で展望は効かない。
主郭へ進むと浅い堀切があり、1段上ると主郭に至り、見晴らしが良い(左4画像)。
戸上砦を指す標識があり、左の道から下ると、岩崖でおそるおそる下る。堀切が1本ある。
慎重に下って行くと、やや平坦になり、連続堀切がある(左5画像)。
道はやや荒れて来るがさらに下って行くと、土橋付きの堀切となり(左6,7画像)、林道に出た。
そのまま下って行くと、古市でなく、弥生の方に出てしまい、レンタサイクルを駐車した古市へ迂回する羽目になってしまった。
小田山城側から尾根伝いに1つピークを超えて下って行くと、
岩盤を削って掘ったような堀切があり、その後3本続く。さらに南に、北に竪掘があり、
これは意図的に堀切にしなかったのであろうか、それとも間に合わなかったのか。最後に南に落ちる竪掘があって、
上の郭へと道は登って行くのだが、時間の制約上ここで引き返した。七ツ堀口というだけに堀が7つあった。
宇都宮氏の庶流、深水氏の一族、秣氏の居城であった。
大炊介は野仲氏に属していたが、野仲氏滅亡後は黒田氏に味方した。
黒田官兵衛により犬丸城が落城すると城主の犬丸越中守清俊は逃れてきたが大炊介により討ち取られた。
また、黒田長政が大畑城を攻め落とした時に、加来安芸守統直も幕の峰という所で討ち取られた。(大系・現地説明版より)
上秣神社の社殿があるところが城址で、付近には標識も整備されている。
社の南側に竹林となった堀切や、墓地への道も堀の跡だろうか。
道路側に土塁も残っている。
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