奈多宮の宮司であった奈多氏の居城。永延年間(987-89)からの家柄で、
鑑基の時、娘が宗麟の正妻となり、勢力を奮った。
また、次男の親賢は武蔵田原家を継ぎ(田原紹忍)、
大友家でも勢力を奮った。
家を嗣いだ鎮基に子がなく久我家から養子を入れていたが、
天正15年(1587)鎮基が死ぬと京都に帰ってしまい、奈多家は滅亡した。
現在、報恩寺背後にある果樹園を中心として遺構が残っている。
報恩寺背後には土塁(左端画像)と竪堀らしい跡が残っているが、
当時の物かどうかは不明。
さらに行くと、大手口の左右にある空堀に出る。
本郭は切り立った台地の上にある。
奥まった所が1段2段と高くなり、塔がある(左2画像)。
その背後には5m以上の高さの空堀がある(中央画像)。
応永年間(1394〜1428)山城国慶安寺の子、惟光はここに築城し、時枝大和守佐馬と名乗った。
5代後の時枝武蔵守平太夫鎮継は弘治2年(1556)大友義鎮の配下となったが、
毛利氏と通じ、土井城城主の佐野親重と光岡城の赤尾氏を滅ぼしたりと、反大友の旗頭として勇躍した。
が孤立し、小早川氏に救援されたが、天正13年(1585)高家城主中島統次に夜討ちを受け落城され、
周防に落ち延びた。
が、天正15年(1587)島津討伐軍の黒田孝高を宇佐郡に導きいれ、
天正17年(1589)中島統次を滅ぼした。
慶長5年(1600)福岡へ転封となった黒田氏に従い、廃城し、福岡へ移った。(大系・現地石碑裏説明)
現在は、大系に書かれてあるような畑地すらもアスファルトと化し、石碑が立っている。
中津城主の小笠原長胤が不行跡で江戸奥詰衆を命ぜられ、弟の長円が封ぜられ、
その弟の長宥が元禄12年(1699)2月に5千石で旗本となり、陣屋が置かれることになった。(大系より)
保育園の横に木製の標柱があり、石垣が一部残っている。
原田氏の後裔という、赤尾氏の城で、貞和6年(1350)に赤尾種綱が築城した。
賢種の時、弘治2年(1556)大友義鎮に降り、翌年山田安芸守を討って、
式部少輔、永禄9年(1566)には中島・成恒氏と高尾城の麻生親政を滅ぼした。
が、土井城の佐野親重と時枝城の時枝鎮継に、赤尾鎮房の四十九日の法要の夜に襲撃され、
落城したが、城主赤尾統秀の次男行種は大友館に脱出した。(大系より)
大系の写真にある赤尾神社は現在はなく、史跡公園となって整備されている。
周囲を土塁で囲み(最左画像)、
中でも、東西南を囲む空堀は発掘の際に掘り返したのか、かなり深い状態で残っている(左2画像)。
また外郭の土塁の内側には石塁で補強されている部分もある(左3画像)。
宅所(館)は麓にあったようである。
大友氏の筑後への足掛かりとして築城され、日田郡衆の在番の城として城将が派遣されていた。
天正10年(1582)に秋月氏に攻められ、落城した。(福岡県の城郭より)
山頂に位置するが、テレビの中継所となり、破壊されているのが残念。
駐車場の北に三角点があり、その先に平坦地と堀切がある(左端画像)。
その平坦地の西側には横堀と竪堀が微かに残る。
駐車場の東側には中継所があり、畝状竪堀1箇所は確認できたが(左2が追う)、
あと5本は藪で未確認。
一方、駐車場の南西側は遺構が良く残っており、
北西側に畝状竪堀がうっすらと、
南西に向けては畝上竪堀がだいぶ浅くなっているが、4本確認できる(右1,2画像)。
返す返すも車道や中継施設がなければと悔やまれてならない。
建久年間(1190-99)に宇都宮氏一族の野仲氏がまずここに城を築き、
その後、長岩城に移り、
平田掃部介を城番とした。
天正16年(1588)長岩城の野仲氏が滅ぼされると、
栗山備後利安が入った。
天正19年(1591)黒田騒動で有名な栗山大膳利章はここで誕生した。
(大系と現地配布資料より)
北台と南台の郭に分かれる。
南の郭は主郭に忠魂塔が立っており、改変されたようであるが、
主郭周囲に黒田時代の石塁が多数残る(上段画像)。
一方北の郭はやや荒れ気味で石塁も残っている(下段最左画像)。
西には土塁も残り、郭も切岸を伴っている。
ただかなり藪化しているので郭間の移動は厄介である。
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