建久7年豊後に下向する大友能直に従い、古庄重吉は朽網郷に入り、
朽網姓を名乗る。その後、朽網宗暦(鑑康)が旧城を拡張した。
天正14年(1586)島津氏に攻められ、朽網鎮則は戦った後に退去、自刃した。
島津氏撤退後、廃城となった。
現在は整備されてあるが、
当時の規模の大きさからすれば一部でしかないと思われる。
北を土塁で囲んだ本丸らしき場所の裏手に堀切らしき道があるが、
これは最近の物か。その北側に平坦地が残る(右端画像)。
この辺りは腰曲輪が2段くらい残る。
本丸の南側は薮化しており、堀なのか幅広く窪んだエリアがあり(中央画像)、
説明板のある辺りも平坦地となっている(左端画像)。
車で近く、にある朽網宗暦の墓。
文治元年(1185)緒方三郎惟栄が源義経を迎えるために築城した。
その後、大友氏一族の志賀氏の居城となった。
天正14年(1586)島津氏の大軍に攻められ包囲されたが、
城主志賀親次は守りきった。その後は、大友義統の領地没収に伴い、
文禄3年(1594)中川秀成が城主となり、以後明治維新まで中川氏が続いた。
志賀太郎[ドン・パウロ](=親次?)はフロイスの書簡にも頻出する。
現在は瀧廉太郎の『荒城の月』のモデルの候補地として名高い。
城址保存のために有料化されてある。夏場だったためか、薮化している曲輪もあり、
残念だった。ただし、多くの石垣は見ごたえある。
正平13年・延文3年(1358)大友8代氏時が築城した。
正平18年・貞治2年に南朝の菊池氏に攻められ、3年の籠城の末に開城となった。
今川了俊が鎮西探題として下向すると北朝方は勢いを盛り返し、
建徳2年・応安4年(1371)大友義範が叛旗を翻し、菊池氏の攻撃に堪えた。
その後、天文13年(1544)20代大友義鑑の時、朽網親満が叛旗を翻し、
高崎山二の丸に陣どったが、城番吉弘左近、古庄舎人助が本丸を守り抜き、
親満は討ち取られた。天正7年(1579)火災で焼失した。
(現地案内板より)
主郭にはのろし台の跡なのか不思議な環状の石塁が残る。
主郭は土塁で囲まれているようだが(右端画像)、
冬にも関わらず薮が多くはっきりしなかった。
主郭から東に下ると、堀切がある(中央画像)。
そこを越えると曲輪が傾斜に沿って数段残る。
しばらく下ると、内枡形の大手門跡が石垣を伴って残る。
旧大手道はやや荒れているようで現在の登山道からははずれる
(行けないこともない)。
登山道を下ると、虎口があり(左2画像)、
曲輪がさらに続く。
登山口へと下ると、竪堀が数条も穿たれているが(左端画像)、
かなり埋もれてしまっている。
応永年間(1394〜1428)に田原氏の7代親幸が築城した。
田原氏の飯塚氏の別城として機能した。
天正8年(1580)田原親貫が主家である大友氏に叛旗を翻した。
隠居していた大友宗麟が出陣、飯塚城、安岐城、鞍懸城に攻め寄せ、
10月6日次男親家が落城させた。
関ケ原の戦いの際、大友氏は西軍に属き、石垣原で黒田勢に敗れ、
当城も落城された。
その後、熊谷直棟が入り、改修された。(大系及び現地案内板より)
現在、天満社が櫓台に建っており、背後には空堀がよく残っている。
本丸などは住宅地となっている。
以前は大友館として認識されていたようであるが、
最近の発掘により大友館であることは誤りとされている。
上野ヶ丘に公園化されており、土塁の跡が残っている。
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