(高勝寺)】南北朝のころにこの辺りを支配していた清原一族によって築城。
南朝方がここに籠り、北朝の攻撃を受け、落城した。その後、大友方となったが、
島津氏の侵攻の前に非戦闘員も含め籠城したが、内部に裏切りが出て落城した。
現在、メサである切株山頂上は広々としている。
そこへの道は傾斜があって守り易かったかもしれない。
土塁の跡も数ヶ所残っている(撮影したつもりだったが駄目デジカメのせいで失敗)。
関ケ原の戦いの後に小川光氏が築城(丸山城)した。
その後入った、石川忠総により永山城となる。
その後、天領となってから城の南側に代官所、布政所が設けられた。
本丸跡はかなり広い。石塁も綺麗に残る。
古代の豪族のものといわれる墓穴が多数ある。
日田郡司大蔵永興の菩提を弔うために慈眼山永興寺が建てられた。
永興寺から山頂にかけて、それらしい跡が残るが、はっきりしない。
大蔵氏一族堤氏の居城。戦国期に大友氏に従うところとなり、
堤鑑智は大友義鑑の命により、同族財津氏を討つことになったが、
逆に討たれる結果となった。
かつては井戸や抜け道が存在したとか。
現在は堀らしき跡くらいか。
大蔵氏による築城といわれる。秀吉の九州征伐後は宮木長次郎が新たに築城した。
その後、毛利高政が入り、5層の天守閣を築いたといわれるが定かでない。
本丸は神社となっている。大手門跡に石塁が綺麗に残るが、
それ以外にはよく分らない。
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