黒田孝高(如水)が築城。その後、細川忠興が城主となるが、 現在ある天守閣は当時なかったらしい。
木付氏が築城。天守閣の有無については微妙。
秀吉の家臣、福原直高が慶長2年(1597)築城に着手した。関ヶ原の戦い後に竹中重利に引き継がれ、
慶長7年(1602)に完成した。第二次大戦で戦火に遭い、宗門櫓と人質櫓のみ残った。(現地資料より)
大友宗麟の銅像が立つ。現在、大分県庁がそびえたっている。
2022年2月現在、PCR検査会場となっており、中に入ることは不可となっている。
吉岡宗歓を京に上らせて、将軍足利義輝の許可をもらって、
永禄5年(1562)に角隈石宗と浪人していた明智光秀らが縄張りして、6月に完成したという。
天正14年(1586)島津軍に攻められたが、国崩しで撃退した。
文禄2年(1593)大友義統除封後、福原直高が5年、太田一吉が3年、慶長5年(1600)稲葉貞通が入り、明治維新まで稲葉氏が続いた。
(大系より)
宗麟時代の大手口である古橋口から登ると、畳櫓を横に見て、大門櫓である。
入ると、護国神社があり、南側に国崩の碑がある。宗麟時代の主郭は、福原時代に二の丸になり、
現在はグランドゴルフ場と化していた。さらに東に行くと空堀があり、北側に天守櫓跡が残る。
毛利家の居城。城跡は山の頂上にある。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。