詳細不明。城跡なのかもはっきりしない。 テレビ中継塔?の先の竹薮と化した山頂付近は、後世に開墾されていたのか、 土塁状の畝が中央に東西に走っているが遺構ではないように見える。 南北に腰郭らしい物が残っており、東側も切岸が数段ある。 北側に1本竪掘のような跡もあるが、畑の跡かもしれない(左端画像)。
大友能直の八男能郷が志賀姓を名乗り、隣接する背子に地頭屋敷を構え、所有する用作田がなまり、
「ゆうじゃく」となったという。
文禄3年(1594)中川秀成が岡藩主として入り、寛文4年(1664)久清から第一家老の中川平右衛門に与えられ、
別荘地とした。書院造の屋敷を建て、池を2つ、射撃場を作った。(現地説明板より)
館があったかどうかも定かでなく、江戸期の建設でその痕跡も消えているだろう今、静かな公園となっていた。
詳細は不明。
神社の無骨な敷石を登っていくと、腰郭があり、小さな祠のある山頂に至る。
その背後に北上し下ると、大きな堀切があり、
さらに細尾根を北上すると、堀切が2本残っている。
大友親秀の6男木付親重が建長年間(1225-85)に築城したという。(大系より)
現在、若宮八幡宮が鎮座しており、社殿背後の山にもこれといった遺構は見当たらない。
北の崖の下を高山川が流れ、要害の地であり、今の社殿や住宅地辺りに屋敷を構えていたのかもしれない。
(直前に竹ノ尾城に行ってカメラで撮影したはずだったが、見事に全て記録されたなかった。)
天正14年(1586)11月、志賀鑑隆(道運)、弟の義親(道雪)、長子の鎮隆が守る、南山城を
島津氏家臣の新納武蔵守、梅北宮内左衛門尉が攻めた。
3千人で迎え撃つも形勢不利になり、鎮隆は自害したが、良く守り、島津軍は久住方面に退いた。
12月上旬に再び囲まれた。内応する物があらわれ、落城し、道運は縄張城に逃れ、志賀重実と吉野義友は討死した。
(大系より)
麓に古い説明板があり、そこから登って行ける。
主郭の北側は椎茸のほだ木が置かれていたりと後世削平された可能性がある。
主郭の南東側に堀切が1本確認できる。
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