豊前(大分)・豊後13



相ヶ鶴城田北城姫島城犬丸城中尾城

相ヶ鶴城

竹田市(旧久住町)

詳細は不明
稲葉ダムの管理塔の横に残る。 道路脇の藪の脇に登り口があり、堀切らしい場所にすぐに到達する。 痩せた尾根を登ると、石塁らしい跡がある虎口?を抜けると、北側を土塁で囲んだ主郭に至る。 長方形で南側が大手口だったのか、腰郭が南側に向けて数段残る。 主郭の東側にも整形が甘いが郭が残る。


田北城

竹田市(旧直入町)

大友氏2代親秀の子親泰が朽網郷田北村に居して、田北氏を名乗った。 (大系より)
東側からはイノシシ除けで入れないとのことで、住職?に西側の入口まで先導して教えていただいた。 西側の鳥居から少し歩くと堀切が2本ある。1本は最近さらに削られたような形跡もある。 社殿のあるエリアは、後世に削平されたようで遺構は残ってないように見える。 東へ少し下ってみると、腰郭と土塁らしい跡が残っていた。


姫島城

姫島村

永禄12年(1569)宗麟の立花城攻めに姫島入道三甫が参加している。 天正7年(1579)毛利水軍が豊後へ侵入し際には姫島寄合中が撃退した。 (大系より)
島の北西部、黒曜石の産地である観音崎の南側にあるが、北側は砕石場となっていて山は削られている。 庄屋古庄家の裏側にあり、横から登り道があり、えぐられた道を登る。 比高50m弱で登りきると、88箇所の祠が幾つか祀られている。 東側に通路を挟んで郭のような空間があり、 また北側には土塁があり、搦め手口があり、外へ下る道へと繋がっている。
最高峰である矢筈岳の麓に石塁を伴ったエリアがあり、畑の様でもなく、 郭のように見えたが何の跡なのかはっきりしなかった。山頂部には特に遺構もない。


犬丸城

中津市【最寄り駅】日豊本線今津駅

12世紀末に緒方三郎惟栄が豊前に築いた5つの1つという伝承があり、 加来三郎惟貞が城主だったという。 その子孫が犬丸氏を称し、犬丸越中守清俊が国人一揆に参加したが、 天正15年(1587)12月24日黒田長政の軍勢に攻められ落城した。(中津市の中近世城館・現地説明版より)
割と住宅化されたのが早かったのか、高台が残るのみで、堀の跡も田んぼになったり、さらにはソーラーパネルが設置されてたりとなっている。


中尾城

中津市【最寄り駅】日豊本線今津駅

天正16年(1588)4月城主の中尾河内守安房が野仲氏とともに長岩城に籠城した。 7月16日日田豆田で野仲鎮兼と共に自刃したという。その長男三之助安秀は中尾屋敷に戻り帰農して庄屋になった。 (中津市の中近世城館・現地説明版より)
当時の郭構造がそのまま残っているように見える。かつては道路が堀だったようだが、土塁の痕跡など部分部分残る。 西側の石碑など撮影したはずの画像がSDカードに残ってないという珍現象に再び遭った。




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