詳細は不明
稲葉ダムの管理塔の横に残る。
道路脇の藪の脇に登り口があり、堀切らしい場所にすぐに到達する。
痩せた尾根を登ると、石塁らしい跡がある虎口?を抜けると、北側を土塁で囲んだ主郭に至る。
長方形で南側が大手口だったのか、腰郭が南側に向けて数段残る。
主郭の東側にも整形が甘いが郭が残る。
大友氏2代親秀の子親泰が朽網郷田北村に居して、田北氏を名乗った。
(大系より)
東側からはイノシシ除けで入れないとのことで、住職?に西側の入口まで先導して教えていただいた。
西側の鳥居から少し歩くと堀切が2本ある。1本は最近さらに削られたような形跡もある。
社殿のあるエリアは、後世に削平されたようで遺構は残ってないように見える。
東へ少し下ってみると、腰郭と土塁らしい跡が残っていた。
永禄12年(1569)宗麟の立花城攻めに姫島入道三甫が参加している。
天正7年(1579)毛利水軍が豊後へ侵入し際には姫島寄合中が撃退した。
(大系より)
島の北西部、黒曜石の産地である観音崎の南側にあるが、北側は砕石場となっていて山は削られている。
庄屋古庄家の裏側にあり、横から登り道があり、えぐられた道を登る。
比高50m弱で登りきると、88箇所の祠が幾つか祀られている。
東側に通路を挟んで郭のような空間があり、
また北側には土塁があり、搦め手口があり、外へ下る道へと繋がっている。
最高峰である矢筈岳の麓に石塁を伴ったエリアがあり、畑の様でもなく、
郭のように見えたが何の跡なのかはっきりしなかった。山頂部には特に遺構もない。
12世紀末に緒方三郎惟栄が豊前に築いた5つの1つという伝承があり、
加来三郎惟貞が城主だったという。
その子孫が犬丸氏を称し、犬丸越中守清俊が国人一揆に参加したが、
天正15年(1587)12月24日黒田長政の軍勢に攻められ落城した。(中津市の中近世城館・現地説明版より)
割と住宅化されたのが早かったのか、高台が残るのみで、堀の跡も田んぼになったり、さらにはソーラーパネルが設置されてたりとなっている。
天正16年(1588)4月城主の中尾河内守安房が野仲氏とともに長岩城に籠城した。
7月16日日田豆田で野仲鎮兼と共に自刃したという。その長男三之助安秀は中尾屋敷に戻り帰農して庄屋になった。
(中津市の中近世城館・現地説明版より)
当時の郭構造がそのまま残っているように見える。かつては道路が堀だったようだが、土塁の痕跡など部分部分残る。
西側の石碑など撮影したはずの画像がSDカードに残ってないという珍現象に再び遭った。
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