豊前(大分)・豊後11



蕗政所騎牟礼城鳥屋城一萬田氏館小牟礼城

蕗政所

豊後高田市

城主は、大堂改修に活躍した調氏や、曽祢崎氏・田原氏などが歴任したと考えられる。 ( 豊後高田市のサイト)
富来寺の西隣、蕗薹の西側に位置する。 堀切らしい跡2本は確認できたが、遺構なのか、いまいち自信が持てない。 さらに山頂まで上がれば山城遺構もあったようだが、予習不足であった。


騎牟礼城

竹田市

久安2年(1150)〜久寿2年(1156)鎮西八郎為朝が築城したという。 天正14年(1586)の島津氏の侵攻の際志賀親次の支城で、明治10年(1877)の西南の役の際にもここに籠った。 (現地説明板と大系より)
城址公園となっており、主郭は南にかけて見晴らしが良い。 西側の郭との間にはかつての堀切だったのか、後世手が入ったのか分からないが、堀切だったか。 西側の郭は土砂取りで改変されてしまった感がある。


鳥屋城

豊後大野市(旧朝地町)【最寄り駅】豊肥本線朝地駅

南北朝頃、貞治元or2年(1362or3)府中から反転した菊池武光が志賀氏房の籠る鳥屋城を攻撃し、近地宗房が戦死し、落城した。 天正14年(1586)豊後に攻め入った島津氏の前に一萬田氏は降伏した。 翌年、大友義統は島津軍に内応した者達を処分し、城主の一萬田鎮実、叔父の鑑之、従兄弟の統政は臼杵で切腹させられた。 一萬田宗慶(鑑実)は野津原村の今畑で切腹した。 その後、宗像鎮続が城主となった。文禄元年(1592)朝鮮出兵の際に敵前逃亡罪で大友義統は領地を没収されたのに伴い、 鎮続も領地を失った。 (大系と現地説明板より)
登山口から約1kmで大手虎口に至るがその前にも堀切が1本、砦跡がある。 平虎口の大手虎口を登って入ると、縄張り図では南北に連なる土塁を越えていきなり広々とした主郭となっているが、 本当に主郭なんだろうか。南へ行くと南郭で西側にも土塁が残る。 南へ尾根が続くので下ってみると、自然か人工かはっきりしないが巨石がいくつかあり、南虎口のようである。 大手虎口から北西に郭が伸びて、北東側は土塁が続く。 櫓台のある二ノ丸跡から西へ行くと三ノ丸であるが、 北側は石塁を伴った土塁である。一旦下って、登り返すと三ノ丸で遺構は良く分からないが、 見晴らしに優れている。 二ノ丸の櫓台から北へ延びる尾根には堀切が1本あり、三角点のある、物見櫓に至る。


一萬田氏館

豊後大野市(旧朝地町)【最寄り駅】豊肥本線朝地駅

大友初代能直の六男時景を始祖とする一萬田氏の居館跡で、 天正年間初期、宗慶(鑑実)が城主の頃、大友宗麟が訪れ、墨染桜の下に仮屋を立て、二夜三日御能・酒宴を催した。 館跡の北側に「花渓紹芳大禅定尼 淑雲」の記銘がある石塔が残っている。大永の頃の一萬田氏の夫人を供養した物とみられている。 (現地説明板・大系より)
畑となっているが、西側に3mくらいの高さの土塁が残っている。


小牟礼城

豊後大野市(旧朝地町)【最寄り駅】豊肥本線朝地駅

一萬田氏の居城で、三河守鑑実(宗慶)がここに拠った。 天正14年(1586)島津氏侵攻の際、降伏し、その後、秀吉の九州征伐で島津氏が撤退後、 鑑実は野津原村の今畑で自害した。(大系より)
今は城の北側から登るとすぐに祠のある主郭であるが、 大手口は川の合流てのある南にあったという。 切岸の跡があるが大手門の跡は見つけきれなかった。 横掘や枡形の跡らしい物が残っている。 北側の祠のある場所が主郭で、南側へ広い郭があり、西側に土塁が残り、東側は崖のようになっている。 西側には竪掘が1本ある。南東側の細尾根には石で裏込めされて、突端は堀切のようになっていた。



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