天文年間(1532〜55)に長与権之助が築城したという。当時は浜の城と呼ばれた。
天正14年(1586)に長与太郎左衛門純一が大村純忠に対して背いて籠った。
大村純忠は大村左近大夫純常に攻めさせたが喉が渇いて攻めあぐねた。
それに対し誰かが「梅ぞ」(「梅干、梅干」とも)と叫び、皆が唾を飲み込み、落城させたという。
純一は深堀氏の下へ逃げた。
(現地説明板・大系・長崎県中近世城館分布調査報告書より)
時津町側から舗装路を登りきると果樹園があり、
北西側に登ると石塁らしい跡があり、竹林となっている数段郭がある。
最高所が主郭のようで、西側に櫓台のような高まりがある。
竪掘があったらしいが良く分からなかった。
長与氏が築城か。(長崎県中近世城館分布調査報告書より)
民家脇から登り、南東側の土塁のような意図の分からない遺構がある。
ここを登ると、二の郭で南西側に土塁がある。
二の郭から1段登ると主郭で、中央に祠か古墳のあとなのか?「コ」の遺構がある。
その北側に深い堀切が1条、さらにもう1条堀切がある。その先は自然林となっている。
長与氏が築城か。(長崎県中近世城館分布調査報告書より)
天満宮への取り付け道路に説明板があり、その背後に堀切から落ちる竪掘がある。
そこを登ると深い堀切で、その東にそれよりは浅いが堀切がもう1条ある。
天満宮の造成などで後世に削平されているようで遺構は、堀切以外は良く分からなかった。
長崎県中近世城館分布調査報告書にも歴史的背景はない。
図書館裏の住宅地への道の途中に階段があり、登りきったところが城址。祠があり、
かつての社殿?の瓦が散乱している。
南側に土塁とその外に横堀のような雰囲気がある。
天文年間(1532〜55)に長与権之助が築城したという。
麓を横切るように旧長与道があり、それを監視した。
(大系より)
現在は中尾城公園となっており公園化され、はっきりとした遺構は山頂部の土塁である。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。