15世紀に上松浦の佐志氏がここを拠点として、一帯を支配し、代官として田口氏を置いたという。
(『長崎県中近世城館分布調査報告書』より)
東側に虎口と土橋があり、主郭を中心に綺麗に空堀が残っている。
主郭から空堀の底までは5mくらいはありそうだ。
主格にも薄く土塁が残っている。
文永11年(1274)守護代の平景隆が元寇の際に自害したと伝わる。(『長崎県中近世城館分布調査報告書』より)
新城神社が主郭だったか、境内となりはっきりしないが、南西側に土塁と空堀が残っている。
が、竹薮が繁茂しまくり、なかなか移動するのが大変である。
神社の横に平景隆の墓がある。
度重なる有馬氏との戦いに備え、大村純治が築城したとされるが、時期は不明。
(大系より)
郡川のすぐ北側、住宅地と畑の中に石塁を伴って2段の郭から構成される。
主郭は北側と東側は土塁で、西側は石塁で、南側に1段下って今は畑となっている郭がある。
江戸時代に庄屋屋敷となっていたようなので、石塁もその頃のものだろうか、はっきりしない。
戦国時代初頭、大村純伊による築城と伝わる。その後有馬氏の支配下に置かれ、
再び大村氏の支配するところとなった。
天正5年(1577)龍造寺隆信の侵攻の際に、地侍の峰弾正・峰将監が守っていた。
(大系より)
明治時代に鉄道敷設の際に土取りで削られ、戦中にも掘削されて遺構は良く分かりにくくなっている。
堀切らしい深い溝が残り、そこを西へ登ると主郭らしいが、
土塁らしい跡もあるが、いつの時代の物なのかははっきりしない。
詳細は不明。すぐ東に湯江川が流れ、和銅地から少し下った地にある。 小さな公園があり、その北側は取り付け道路のようになっているが、これが大系に記載のある、堀切の跡だろうか。 今は、西側に小さな石碑があるだけになっている。
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