鎌倉時代末期、永仁元年(1293)に岸岳城主の波多宗無により築城されたと伝わる。
その後、壱岐は志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留氏など松浦党の治めるところになっていたが、
文明4年(1472)波多泰が攻め込み、壱岐を支配し、亀丘城を修築し、
阿波守某を代官として治めさせた。
永禄8年(1565)波多氏の内訌に乗じて重臣の日高甲斐守喜が国人領主6氏を滅ぼし、支配するところとなった。
元亀2年(1571)対馬の宗氏が攻めるも、平戸の松浦氏の支援の元に撃退し、
日高氏は松浦氏の家臣となり、明治維新まで松浦氏の支配となった。(体系より)
現在は、かなり破壊されているものの、本丸の北側に石垣が一部残っており、
空堀跡の道?や郭の跡が残る。
壱岐氏の居館跡であろうと推測されているが確証はないようである。
柱穴群を含む建物跡や堀も確認されている。(『百合畑古墳群・山ノ神古墳・壱岐氏居館跡』より)
国片主神社の北側に土塁と空堀らしい跡がある。
それ以外は境内となっておりよく分からない。
元寇の後、応永年間(1394〜1428)松浦党の塩津留氏がここに居城を構えた。(体系より)
壱岐氏居館から道路を挟んだ南東側の丘の上の家の裏にある。
標識は特にないが、道路から土塁らしき物が見えてそれが土塁の南西端である。
西側に虎口らしく土塁が途切れている。南側と東側は土塁で、北側は住宅となっていてやや破壊されている。
東側が谷で、腰郭と土塁さらに数段切岸らしい跡がある。
郭内が藪なのが残念である。
応永年間(1394〜1428)塩津留助次郎源経により築城された。
(『長崎県中近世城館分布調査報告書』より)
山頂部に大き目の石の石塁が周囲を囲っている。
北西部から東側にかけて、石塁は良く残り、腰郭の跡もはっきりするのに対し、
それ以外は藪化しており、はっきりしない。
城八幡を祀っている石壇がかつてはあったらしいが、よく分からない状態となっている。
天智天皇6年(667)に高安城、屋嶋城とともに築城されたと日本書紀に記されている。
同2年に白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れ、来襲に備え築城したとみられている。
その後、10世紀までは防人が派遣されていた記録が残っているが、それ以降は廃されたと推測されている。(大系より)
県道24号の城戸の入口から登山道入口まで1.8kmある。
登山道を登っていくと、東南角石塁の方へ分岐があり(上段左端)、
山側に南門跡があったはずなのだが、見逃してしまった。
直線的に伸びる石塁を横切る九十九折の登山道をしばらく登ると、
南西部石塁がある(上段左2)。
山頂手前には旧陸軍の砲台跡があり、西側側に石塁を見ながら南に標高を稼ぐと山頂で、
ここにも石塁が若干残っている。
砲台跡に戻り、石塁の残る尾根を下る。石塁のある西側は崖状になっている(上段3)。
かなり下ると一ノ城戸で水門跡が残る(上段4,5)。海のほうへ下ると大吉戸神社がある。
一ノ城戸から南へ行くと二ノ城戸で、崩壊した跡に最近修復工事を施したらしい(下段2)。
三ノ城戸までの道は現在通行止めになっており、やや登ってビングシ土塁経由となる。
ビングシ山周辺では柱穴の跡など掘立柱建物跡が発掘されている。
再び下ると、三ノ城戸で一番規模が大きい(下段4)。
さらに登ると張り出しのある東南角石塁で、崩落している箇所もある(下段右端)。
少し登ると最初の分岐に戻ることになる。
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