南北朝の正平年間(1346〜69)志佐壱岐守源義が壱岐分治の居城として、家臣の田口木工入道沙弥盛慶を常駐させた。
江戸時代に、平戸藩砲術師範の牧山忠平が山頂に祠などを設けた。空堀がかつてはあったが、
畠となり埋められてしまった。(勝本町の文化財より)
風早山の山頂から郭らしい段が続き石塁など残っているが、後世の畑の跡かもしれない。
天文10年(1541)に寄進された、十一面観世音菩薩坐像の像底に墨書で寄進者の一人として名のある、
松浦党の一族、本城氏の源壱が城主と推測されている。
壱岐風土記の丘周辺の古墳群の中に存在する。
南北を長軸に持つ楕円の主郭を二重の空堀で囲む。空堀の深さは5〜6mある。
主郭は周囲に土塁があり、内部は木々が生えており、余り平坦でもない。
日高大膳の居城。(大系より)
文永年間(1264〜75)少弐氏により築城された。(長崎県中近世城館分布調査報告書より)
南に芦辺港を望む、民家の裏手に神社と石碑が残る。
すぐ北側は下り斜面になっており、遺構らしい物はない。
有馬氏の家臣空閑越後守といわれている。天正7年(1579)龍造寺氏勢に攻められ、当城で討死という。(大系・現地説明板より)
舌端状上にあったようだが、島原鉄道や国道251号線の敷設で分断されている。
幅10m、長さ40m、深さ3mの空堀が残っている。
島原氏の家臣和泉左京が城主であった。
天正12年(1584)沖田畷の戦いの際に龍造寺隆信は当城を本陣とした。
沖田畷で隆信が討死すると、左京は島原純豊とともに捕えられ、斬られたという。(大系より)
現在は、寺中川と中野川の合流する地点で舌端状の上に位置し、主郭はトウモロコシ畑となっている。
空堀を挟んで西側に郭が残る。
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